嫌われ松子の一生

ichinics2006-06-03
監督:中島哲也 原作:山田宗樹
【ネタばれしています】
原作は未読なんだけど、予告を見る限りでは「不幸だった松子の人生は、それでもハッピーでした!」というノリのように見えたし、松子は「嫌われてない」らしいという情報だけは仕入れていたので、ハッピーな感触を期待して(「下妻物語」の思い出を反芻しつつ)、笑うつもりで見にいった。
でも見終わるとへこんでいた。すごく悲しくて怖い物語だと思った*1。映画自体はとても面白かったのだけど、それを「楽しんで見る」ということに対して、どうしても抵抗を感じてしまった。悲惨さをユーモアとして描くことに抵抗があるわけではない。ただ、映画の中にいる松子は自らに対してほとんど客観的な視線を持てていないということで悪循環に陥っているので、ユーモアとして描いてもそれは松子にとってはちっともユーモアではないというアンバランスさが切なく息苦しいのだ。松子は、他者からの「憐憫」や「同情」に、とても敏感な人に見えたし、だからきっと「ハッピーでしたね」といえば「そうよ」と答えそうな気がするのだけど、そこで弱音を吐けないことこそが、松子を取り巻いていた壁だったんじゃないかと私は思った。
病弱な妹ばかりが可愛がられるという環境で育った松子は、幼少期からずっと、父に振り向いてもらおうとあの手この手を尽くしていた。そこだけを見ると、松子は「健気な少女」なのだが、父の愛を手に入れている妹に対しては、彼女が松子を慕っているにもかかわらず辛くあたってしまう。それは多分、「持っているお前がおれに同情するな!」ってことだったのかなと思うのです。友達と疎遠になる場面も、たぶんそれと同じ。でもその逆にはまるで頓着しない。
その後、ある事件をきっかけに家出した松子は、幾人もの男を愛し、裏切られることになります。映画における「不幸」のほとんどは、その異性関係を指して描かれているといって差し支えない、と思う。そして最終的に、ある男が『松子の愛は神の愛だ』みたいなことを悟る場面があるのですけど、そこに突っ込みが入らないことで、なんだかよけい居心地が悪くなってしまった。ええ、そこきれいごとにして良いの? という感じ。
たぶん、松子が求めていたのは、父親からの愛なんだろうな、と私には見えた。松子は幼少期に父親に向けていたのと同じように、恋人たちへも、笑顔で機嫌をとり、自分を見ていてくれと願う。でも、それは同時に相手の男性を見ていないということではないのかな、とも思う。「神の愛」という言葉を引き継ぐならば、松子は『ドッグヴィル』でニコール・キッドマンが演じたあの「天使」にも似ている。誰かを愛する、試練に耐える、見てほしいと願う。それらの行為が全て目の前にいる対象への気持ちではなくて、自分へ投影されている。もしくは運命を司る「神」のような存在に対して向けられている。それなのに「松子は愛を与える女だった」というような描き方をしていたことについては、違和感があった。
ただ、ラストシーンは、松子が自分へ向けられていた「愛」(妹からの)に気付いたように見えたし、それは現在にいて松子の人生を回想している誰にもわからないことだろうと思ったので「彼女の人生は良きものだった」というのなら、それは松子の台詞であって欲しかった。
でもきっと、松子にとってはそんなことどうでもいいのだろうとも思う。

でも映画は面白かったのです。とにかく派手な美術も好みで、とくにCGで描かれる屋上の遊園地はすごくよかった。あそこのイメージボードのためだけにパンフ買ってしまいました。音楽もよかった。
キャストも豪華で、個人的には黒沢あすかさんがとってもよかったです。それから宮藤官九郎さんのDV男ぶりが相当恐ろしかったのも印象的。父娘間の描写にはかなり感情移入してしまって、父親役の柄本明さんが出てくる場面はほとんど泣いてたような気がする。

*1:感触は、桐野夏生の『グロテスク』に近いと思った。