世界は全て裏表?

こういうのうまく言い表す言葉が既にあるんだろうけど知らないのであらすじから書くと、例えば、人物Aが困っている時に、手を差し伸べるBと見て見ぬ振りをするCがいるとする。すると、BとCに対する評価は、それぞれ背反する側面を持ってしまう。Bの場合は、例えば「手を差し伸べる善人」と「Aを憐れむことによってAを貶める悪人」であり、Cの場合は「手を差し伸べることさえしない悪人」と「Aを憐れんだりはしない、他者のプライドを重視する善人」。大雑把な話ですけど、こういう「価値」についての見え方っていうのは、考えはじめると本当にややこしくてうっとうしい。うっとうしいので、基準があるといいよねという話になって、ケースバイケースの基準を作る。
ただそれは集団の基準であって自分の基準とは矛盾することも多いので(ですよね?)、それなら判断しなくてもいいはずだ。例えば上のルールだったら、善悪を判断できるのは本来「A」だけなんじゃないか。だから、A自身がBとCのどちらを憎みどちらを愛するか、という選択をすれば構図は単純になる。しかし世の中には基準というものがができてしまっているので、外野(客観)は率先して判断する側に回る。たとえAが判断をためらっても、判断はくだされ、BとCのどっちが善か悪かということでAにとっては「憎むべき」対象は複数になり、愛す派を巻き込んで憎むという行為に流れる……ということはよくある。さらに善と悪とのどちらを憎んでどちらを愛すか、というとこでもまた分かれる。なんでなんだろう? 参加することに意義があるせいか、あるいは保留はバランスが悪いからか。とにかく多数派や少数派に別れていくことで判断は出来上がり、消費されていく。
だけど、ここで「憎むべき」としているのは何か、というのを考えると、それは「基準」そのものだったりしないだろうか。基準を作った側が作られたそれに左右されている?
そして、そういうとこまで考えてしまうと「基準」ではなく「自らの基準」というのを追い求める個人という立場がでてくるわけですが(だと思うのですが)、これを保つのはたぶんとっても難しい。揺れてしまうことが多いと思う。だって、単に利己的であろうとしているだけ、処世術として基準にあわせている「フリ」をしているだけ、無関心なだけ、としても常に判断する外野はいるので、意に反して振り分けられることがある。それにも無関心を貫くことはできるのだろうけど、そうすると、その振り分けは次第に偏ってしまう。悪側に偏れば非難され善側に偏れば期待される。そして非難を退けなければ、潔いとされたりで「善」へ偏り「期待」を裏切れば、偽善だとされ「悪」に偏る。うっとうしさの終わらない物語。しかし、それから逃げようとすることは、根本であったはずの「自分の基準」を裏切ることになる。
だけど、自らの基準を追い求めるということは、判断しないこと、つまり自分が判断する際には常に「A」でしかあり得ないということなのかもしれなくて、だとしたら「自らの基準」に伺いを立てるなんてこと自体がそもそも矛盾している。というか、たぶん「基準を作り出す」ことは可能でも「基準に捕われない」でいることは不可能に近いんだろうな。作り出された時点で、基準は基準として勝手に判断をはじめる「外野」になるからだ。でも私は、やっぱり価値の外側にも善悪というのはあるのかもしれない、と思う。わからないけど。好悪とか?
と、話がずれたのですが、michiakiさんのこれを(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060604#1149352351)を読んでいて思ったのが、たとえ悪側に偏っても善側に振り分けようとしないところが潔いなぁ、と、そういえば私も思っているかもってことだった。そして、だからこそ善側に偏りスパイラルからは抜けられないのかもしれないと思う(しかし例えば、その逆に偏らせることは、そもそもやりたくない事だったりする?)。だけど、ちゃんと反対はいて、でもそっち側もきっと「土俵に乗ってくれない」ということで逆に夢中にさせてしまうのかもしれないなぁ、と思いました。
そしてそれは(普遍的な話として)、上に書いているようなうっとうしい「揺れ」をあんまり感じさせない相手には、本音というか裏のようなものを勘ぐりたくなるものだからなのかしら、と思う。ドラマというか。今回の場合は、言葉の輪郭を見る前に「裏」や「本音」があると思ってしまってるのかなと思ったけど、むしろそれが「ない」のかもしれないってことに怒ってるのかもしれない。
考え過ぎ? かもしれません、と断るのが嫌らしい、というより「これは判断じゃないですよ」という逃げなんですけど。