矛盾だらけ

昨日書いた文(id:ichinics:20060605:p1)はちょっと乱暴だったと思うので、もう少し付け足す。
あそこに書いたことは私の中でよく問われることであって、それなのに結局私はいつも楽な方に逃げていてそれを改めようともしない、というのは前にも書いたことがあるんだけども、いつまで経っても私は揺れっぱなしなのだった。

例えば先日、私の友人の親戚が住んでいる地域で、大規模な災害があった。私は少しためらって、でもやっぱり友人に連絡をとった。幸いなことに、友人の親戚は無事だったという。良かった、と思った。被災者はほかにもたくさんいるのに、私は良かった、と思った。でもそれはその親戚が無事だったことにではなくて、たぶん友達にとって、悲しいことが起きなくて良かった、ということにすぎず、無事だとわかれば解決した気持ちになってしまう。相変わらずのいつもどおりの調子で、日記だって書き続けられる。そのような利己的な自分にはもう慣れた。うぇー、と思うけど、慣れた。自分にできることよりも、自分が実際にしてもいいと思うこと、そして実際に行動することの範囲はものすごく狭い。

映画の途中で、主人公は二度、「目の前で苦しんでいる子供」を救うチャンスが訪れる。一度目は主人公は、「全員を助けられない」というロジックで放っておき、二度目は「この子だけでも今助けられるじゃないか!」というロジックで助けようとするが、結局それは果たせない。どちらのロジックも、すべての言説がいつでもそうであるように、半分間違っていて半分あっている。よく後者のロジックの現前性というか緊急性というかそういうものが強調されて、「目の前で苦しむ人間を助けるのは人間の自然の感情だ」というけれど、助けたとしてその後の面倒は一体誰が見る?
http://anotherorphan.com/2006/06/post_292.html

Bさんのこの文章は「ナイロビの蜂」という映画の感想として書かれたものなのですが、この映画の感想を読んで、私は、私がこの映画を見ながら逃げようとしていたところをさらけ出されたような気がして、痛い気持ちになるのと同時に、それでもいつかそんなチャンスが巡ってきたら、と想像するのは、なんて傲慢なことなんだろう、という気持ちと、行動の由来なんて重要なことではないんじゃないの、という気持ちとで揺れていて、さらに、その葛藤が全て自分の中で行われているということ。どんな結論を出しても、結局それが自己満足の空論にしかならないこと。最終的にはいつも、その限界にうんざりするんだった。
だから今目の前にないことを思ってくよくよしてないで、出くわしたその瞬間に、判断すればいいじゃないかということでとりあえずの決着をつけて、また瞬間ごとにくよくよと揺れる生活が続くわけです。

「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」は確かに両立しないし*1、それなら後者を捨てたいと思う。でもこの罪悪感っていうのは、どこから湧いてくるんだろう? 私は結局、その罪悪感から逃れるために自分の悪を受け入れたいのだと思うのだけど、そもそも許されたいのかどうかもよくわからない。というか、許すのって誰だろ?
例えば、私が私しかいない状況で、「この子だけでも今助けられるじゃないか!」と思うとしたら、それはその子を助けたい、という気持ちよりは、見捨てたことで罪悪感を感じ続けたくないからなのだろうと思う。あくまでも私にとって、だけど、そこはきっと永遠に覆されない偽善なんだろうなと思う。そういう意味で、私はもしかしたら、神(のようなもの)を信じているのかもしれない。

そして、こうやって揺れっぱなしの私にとっては、自分で自分を肯定出来ている人というのがとてもうらやましいというか、興味があるというか憧れるというかまぶしく感じたりするときがあるのでした。それなのに、時折、そこに揺れを見ようとしていることに気付いて、申し訳ないなぁと思うのが、昨日の文だった気がします。
それにしても、こういうこと書くとすっかり愚痴になっちゃうのがだめだなーと反省したので、しばらく自粛する。