晒しても好き?

好きだってすごく言って欲しいんですけど、いざそう言われると信じられなくて「なんで!?」「どこが!?」と反発してしまう。だってあなたは自分の何を知っているというのか? ほんとうの自分を知ったら離れていってしまうのではないのか? というような怖れがあるんでしょうね。そして、「これでも、そう言ってくれるの?」って自分晒しが始まるわけです。
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060606#1149603603

これが前に書いてた「手を差し伸べられてもふりはらってしまう沙都子の心理」なのかなぁ? と思ったりした。いちいち細かくててすみません。だけど、この気持ちはすごくよく分かるような気がします。

でも、例えば、自分が「これは最悪だろう」と思っているものが、他者に対してもそうである、とは限らない。逆の立場から考えてみれば、自分の中にある「最悪」に似たものが、相手の中にもあったとしたら、それはそれで(複雑な気持ちだとしても)マイナスよりはプラスの要素として受け取るんじゃないだろうか。もちろん、似た要素がまったく無かったとしても、自分が好きな相手が、自分に「晒してくれた部分」っていうのは、それを原因として好きを損なったりするものじゃないように思う。
最近なんとなく、好悪の感情は(それが対人でも対物でも趣味でも)善悪という前提を越えるのかもな、とか思うし、だから、今あるAさんの「好き」を損なうようなもの、というのは、もっと意識されない部分/もしくはAさんの側、にあるのかもしれない。
例えば、michiakiさんの場合では、(と、わかったようなことを書くのはためらわれるのだけど)、自身が受け止める側として「好ましくない」と感じるようなことは、そもそもやらないし、やりたくないのではないかな、と思う。当然すぎるかな? でも「自分は世界の悲惨を知りつつ何もしない」と「自分は良い人間」が両立しない、ということを疑うことができるのは、やはりそれを無視することを自分が許さないからなのではないかな、と思うし、「なんで!?」「どこが!?」と反発する部分は、それが見つけられているということでもあり、その時点で既に、赦されているのかもしれない。

だから露悪趣味っていうのには、むしろその「悪とか毒とか」の奥にある、嘘のない/でも矛盾しているかもしれない部分を、見透かして欲しい願望っていうのも、あるのかもなぁ、と思う。それもまた勘ぐり過ぎてる気はするけど、私がそれをするときは「ある」かもな。
まあ、夢見がちな話なんですけど、そもそも「好きだ」って言ってほしいのも、別に不特定多数に求めているものではない(はずだ)し。
ただ、一番難しいのはむしろ、それを返す覚悟をしたうえで求めるってことかもしれない。