恋愛は面倒

「『恋』は瞬発力。相手の愛情、時間、興味、肉体、その他あらゆるものを自分に向けたい、手に入れたいというパワフルな欲望。『愛』は持続力。相手に何かしてあげたい、優しくしたい、助けたい、守りたいというパワフルな感傷。相反するがごとき互いの『恋愛』を、力の限り当事者同士ぶつけ合って、くれぐれも他人に迷惑をかけないように致しましょう」
『恋愛的瞬間』第五巻

『恋愛的瞬間』を初めて読んだのはたぶん大学生の頃。吉野朔実さんは大好きな漫画家さんなのだけど、最終巻のカバーそでにあったこの文を読んだ時、ぼんやりとした違和感があった。ちょっと前にそれを思い出して、久々に取り出してみてみたのだけど、うん、やっぱり違和感はある。そしてそれはたぶん、最後の一文「力の限り当事者同士ぶつけ合って」というとこにあるんだと思う。私はたぶん、それが面倒なんだろうな。
恋と愛という感情と恋愛はまた別物だよなと思うし、その定義については、この文に書いてあることと私の思うそれはほぼ同じように思う。ただ、上の文で二度も「パワフル」という言葉が使われているように、それはかなりの力がいることだ。そして、一度始まった恋愛がうまくいかなくなるのは、その力の均衡がとれなくなるからなんじゃないか、と思う。ただし、それはつり合っていなければいけないということじゃなくて、お互いにとって心地よいバランスを探りあって保てるかどうか、ということのような気がするけど。
そして私の「違和感」は、「当事者同士」というとこから、相手がいなければそれは恋でも愛でもないのかな、と疑問をもったからなんだけど、そこはたぶん誤解だった。
ここに「当事者」という言葉があるのは、対象のない恋や愛はないからなのだと思う。だから例えば、友人や家族や人以外のものに対しても、恋や愛(引用文の定義で)はあるし、それは受け取るだけでも、発するだけでも、交換していても恋であり愛だ。
ただ、「恋愛」の場合は、それを関係として成立させるために、力の均衡が必要になる。こっちの出力が100でも相手が0だったら成り立たないとか、そういうことなんだと思う。何をいまさら、だけど、自分一人で成り立たないものを抱えるって、こわい。

もう私に同情しないで
私をかわいそうに思わないで
私は それを 私が愛している人にだけ許したい
『恋愛的瞬間』第20話

そしてその力の均衡とは「許す/許される」ということからはじまるのかもしれない。
私は、人に干渉されたり干渉したりするのがあまり得意ではないので、自分の欲求や干渉を相手にぶつけるということにためらいを感じるのだけど、でもどうしてもそれをしたい、と思う相手がいることもある。まあ一回それが許されてしまうとずるずると要求してしまうようになる、ということもあったけど、でもやっぱりどこかで歯止めがかかって「力の限りぶつける」なんてことは難しい。そしてその状態で力の均衡を保つなんてことはさらに難しい。
その関係性に巻き込まれたい、という欲求もあるといえばあるけれど、私にとっては、そのハードルを越えてもまだそれ(恋愛)をしたいと思う相手がいることの方が珍しく、さらにその相手がそれを許してくれるなんてことはさらに珍しいだろう。
そう考えているからこそ、私は誰かを恋愛対象として好きになることがあんまりないんだろうなぁと思っていたんだけど、でも違うのかもしれない。それはやっぱり勝手に現れる感情であって、目の前にあるからこそ、面倒なのはわかっていてもためしてみたくなるのかもしれない。