私たちが直面している「問題」は何でしょうか。もちろん、私とあなたの「問題」は異なっているはずです。この本は、それぞれの「私」が直面している問題を、自分で解きほぐす手助けとなることを目指しています。[p20]
というような趣旨の本。
帯には『自殺には、「正しい自殺」と「正しくない自殺」がある』なんて書いてあって、興味をそそられる(?)んだけど、読み終えてみると、この議題については、その動機(もしくはこの本を手に取る動機)がわりと限定された/というかそれを持っている人むけに書かれている印象を受けた。
基本的に「私」について考えている3章まではとても面白く、しかし若干の出来過ぎ(うたぐりぶかい)を感じながら読んでいたのですが、そこに〈他者〉の視点が入ってくる後半にはすこし違和感があった。なんで違和感を感じるのか。ちょっと整理してみようと思う。
ちなみにこの本はid:michiakiさんにおすすめしていただきました。感謝。以下の感想には〈物語〉の部分はあまり触れてないけど、ほんとはそこが一番面白かったので、それについては別途考えたい。というか考え中。
- 作者: 高田明典
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2006/05/17
- メディア: 新書
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著者は〈物語〉のゴールを「得る物語」と「逃れる物語」に分けて考える。「得る」のほうはうまく説明しづらいけど、「逃れる物語」とはつまり、「逃れられない」と考えることによって辛さを感じ、そこから逃れるための〈物語〉ということだと思う。
つまり、はっきりとは書かれていないけれど「逃れる」ことはいつだってできるので、「逃れる物語」としての自殺はそもそも「正しくない」ということなのだろうと思った。そして「得る物語」こそが、世界をより正しく、変化させるものなのだ、と。この辺りは面白かったので考え中。もうちょっと。
ただ、ここでなんとなくひっかかったのは仮面の下の自己(現存在)の捉え方が、あまりにも漠としたものであるということ、むしろ役柄なしには存在できないもののようにとらえられていることでした。それはなぜなのか、後半を読むとなんとなくわかります。
「私」の捉え方について、第三章ではヴィトゲンシュタインが出てきます。ヴィトゲンシュタインについて書かれたものは永井均さんの本と、飯田隆さんの本を読んだばかりなのですが、ここで高田明典さんが『「私的言語」が存在しないということは、「独我論」が成立しえないということと同義です。[p130]』とあっさり説明されていて、説明する人によってまったく印象が違う(もしくは私の受け取り方がそもそも間違ってる)んだなぁと思った。まあ、とりあえずそこはおいておいて、この本では「超越確実性言明」という『「無根拠」にあなたが信じ、主張することしかできない言明』の束が〈私〉の構成要素であるとしている。そして以下の部分で説明されている
私たちはその内部に「到底引受けることのできない何か」を抱えている存在です。アガンベンはそれを「生理学的な生そのもの」と表現しています。
(略)
そのとき「私」の内部には「引き受けられないものとしての生そのもの」と「引き受けられないと感じている主語としての何か」の二つの要素が存在しているのだと考える必要があります。[p123]
この「引き受けられないもの」を《私》とし、主語としての何かである〈私〉と〈身体〉の重なる部分に、おいているのが、この本における《私》のようです。いろいろあってややこしいけど、無理矢理図解するとこんな→[〈私《〈私〉》身体〉]の[ ]全体が「私」であると。
そして、〈他者〉の存在によって《私》は輪郭を持ち(本では境界と書かれている)その輪郭を内側から規定するものが「超越確実性言明」外側から規定するものが〈他者〉である(p164)。ここがこの本の中核であるような気がします。
そしてこの構図は先の「対象化された自己」が〈私〉、その下にある「現存在」が《私》という関係に当てはめることができる。すると、現存在が漠然としたものに思えたのはつまり、そこに〈他者〉を必要としているという考えが下敷きとしてあったからなのだとわかります(たぶん)。
そのなかで私たちは孤独な闘いを続けつつ、同じように孤独に闘っている〈他者〉の声を受け取ることができます。そのとき私たちは「ともに闘う」決意を、孤独の中で確認することができます。(略)そうすることで私たちは〈他者〉にその存在を引き受けてもらい、それによって《私》という存在が確実なものとなり、また、その存在の強度を増していきます。そのような〈他者〉の存在に触れたとき、私たちの魂は少しふるえます。
それは、私たちが〈他者〉と「ともに闘う」ことによってのみ、「正しくある」ことができるということを意味しています。[p212]
何かすてきな感じではあるけど、「それは〜意味しています」がわからない。もちろんここでいう「正しさ」は「個人の正しさ」なのだけど、私のイメージをこの本での公式にあてはめるなら、他者によって描かれる輪郭は〈私〉の方で、それを覆うものとして現存在があるように思うんだけど、それをどう説明すればいいのかがわからない。ただ、上記のような「声を受け取る」ことは、あると思うし、あって欲しいと思う。しかしそれがなければ《私》が在れない/そもそもない、とするのは違うように思う(この本ではあれない、と言っているわけではないと思うけど)。うーん。でも、それを言ったら、私的言語の部分から、現存在が成り立たないといわれそうなのだけど、そこらへんのイメージの仕方がそもそも違うみたいだ。うー、なんかもどかしい。もっといろんな言葉を覚えたいので、言語についてはもう少しいろんな人の本やら読んでみたいと思う。
追記
一晩寝たら何か違う気がしてきた。
ここでの〈他者〉は、そうか、たとえば〈私〉が何か思ったとき、言葉でその輪郭をとらえるということは既に、〈他者〉の存在を意識しているということだったのかもしれない。そしてその意識が《 》の境界を作るってのが「言葉の意味は使用である」で言われてることなのかも。
「存在を引き受けあう」というのがまだよくわからないので、もうちょっと。