ヨコハマ買い出し紀行/芦奈野ひとし

連載は途中で脱落してしまったので、完結したらまとめ読みしよう、と思ってたのを、やっと。

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

ヨコハマ買い出し紀行 1 (アフタヌーンKC)

私の中には、もう長いこと、この黄昏の世界での時間が流れてるような気がする。少しだけ。それを「とっておき」の場所にしちゃいけないなと思いながら、私はこの世界に憧れる。

この数年で世の中も随分変わったわ
時代の黄昏がこんなにゆったりのんびりと来るものだったなんて
私は多分この黄昏の世をずっと見ていくんだと思う

ヨコハマ買い出し紀行』は、温暖化(のようなものだろう)*1が進行し「年々海が上がってくる」という黄昏の世界を舞台にした物語だ。しかし、その世界に悲愴さはなく、ゆったり、のんびりしている。
『終末のフール』という本を読んだときも*2、同じようなことを思った。「明日死ぬとしたら、生き方が変わるんですか?」という一言。変わらないってことは分かっているのに、リミットが「定められていない」というだけで、なぜこんなにわかりにくく感じるのだろう。
ヨコハマ買い出し紀行』の主人公、アルファさんはロボットだ。アルファさんは人と同じように食べて、笑い、泣いて、眠るけれど、外見は年をとらない。

マッキちゃんはタカヒロと時間も体も
いっしょの船に乗ってる
私はみんなの船を岸で見てるだけかもしれない
第45話「みんなの船」 /6巻

その「年をとらないこと」についてのアルファさんの気持ちが現れているのが、たとえばこの台詞だったと思う。しかしやがて一年間の旅から帰宅した場面には、こんな台詞がある。

るすの間の話を聞いた
ココネが4回来ていたこと
おじさんが足にケガしてしばらく歩けなかったこと
私の知らない毎日がほんとにあった
きのうまでの一年間がじわじわひとかたまりに
過去になっていく
うまれてはじめて
ひとつ齢をとった気がしている
第81話「一年空間」/9巻

とても印象に残っている場面。そして、彼女はリミットが決まっていなくても、それを見据えることはできるのだということの象徴のように感じる。
この物語での世界は、たしかに終わりかけている。けれどそれはいつだって、いま私がいるここだって、同じことで、終わりはちゃんとくる。でも、それが「いつ」かわからない限り、この世界は行き止まりを先延ばしにすることを、やめられはしないだろう。それでも、私にとって、この物語で描かれる世界の晩年は、ひとつの理想だ。
世界にしろ個人にしろ、命というものは「最後かもしれない燃料を一滴も残すものかとあせるように走るように泣きながら回る[第124話「鼓動」/13巻]」プロペラみたいなものなのだと考えるとき、私は自分のそれを、毎日を無駄にしたり味わったりしながら、大切に使いきりたいと思う。そしてそれは「とっておく」ことじゃないんだなって、よく思い出す。
終わりを考えることは、決して後ろ向きなことではない。いつから終わりはじめるのかなんて、たぶん誰にも決められないからこそ、それは考えられるべきだ、とすら思う。
私はそれについて、いつかもっときちんと言葉にしてみたい。

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

ヨコハマ買い出し紀行 (14) (アフタヌーンKC (1176))

この最終巻での最後の言葉は、この物語のはじまりとつながって、きちんと閉じている。読み終えたあと、空のターポンから地上を見ているもう一人のアルファさんのことを考えていたら、「みんなの船を見ているだけ」と感じているのはアルファー室長なのかもしれない、って思ったりしたけど。あそこでの生活も、きっと止まってはいないだろう。結論はないけど、すべてがただある感じが、この漫画のすばらしいところだと思う。

*1:作品中では言及されてなかったと思う

*2:id:ichinics:20060413:p1