そして不自由な「私」

ここ数日、プラモデル作りにいそしんでいる。工作は子供の頃から好きだったけど、細かいところでおおざっぱなのも相変わらずで、細かい部品をなくしてしまったり、筆が滑って塗り直しになったり、そんなことを繰り返しながらちょっとづつ作っている。
絵を描いたり、文章を書いたり、プラモ作ったり? そういう何かを作る作業をしていると、よく感じるのが上に書いた「私」の不自由さだったりする。
今でもよく思い出すのが、大学の卒業制作でのことだ。大学で映像制作を選考していた私は、卒業制作で、カメラ脚本編集などなど、全てを自分一人でやろうとして、失敗した。私には向いているパートと向いていないパートがあって、それを全てねじ伏せようとしたのがごう慢だったと今は思うし実際コントロールできなかった。もうあの作品は見返したくもない。けれど、その時の経験が、自分に向いていて/心地よいと感じることへ多少の道筋を作ってくれたのだとも思う。
プラモデルを作っていると、どう考えても美しいものはできそうにないと思って、自分の手先が憎らしくもなるけれど、でも、この作業をただ楽しいと思っている自分もいるんだよねと思う。そして、いつもより少し、手間をかけてみようと思う。
向いてないなと思ってやめとくのも、それでもやってみるのも、どっちだってできる。でも、楽しいと思いながらやれることの方が「私」はうまく動くようになる気がする。だから「もっとうまくかければいいのに」と思いながらも、私は相変わらず文章を書く。たぶんここじゃなくても。とりあえず書くことにおいては、その出来上がりの良し悪しを別として「私」はわりとうまく動くし、それはそれが好きだからだ。
勉強だって、学生の頃より、今の方がずっと楽しいと思えるのは、きっとそれなんじゃないかな。意味なんて後からいくらでもやってくる。たぶんね。