三島由紀夫のインタビュー映像をみて

「思想とかは共感しないですけどね、でもね、そこまでして何かを伝えようとした、という事実が衝撃なんですよ、俺には。しかも伝わらなかったんだから、衝撃の二乗ですよ。別に俺は、あの事件に詳しいわけじゃないですけどね、きっと、後で、利口ぶった学者や文化人がね、あれは、演出された自決だった、とか、ナルシストの天才がおかしくなっただけ、とかね、言い捨てたに違いないんですよ。でもね、もっと驚かないといけないのはね、一人の人間が、本気で伝えたいことも伝わらないっていうこの事実ですよ。三島由紀夫を、馬鹿、と一刀両断で切り捨てた奴らもね、心のどこかでは、自分が本気を出せば、言いたいことが伝わるんだ、と思ってるはずですよ。絶対に。インターネットで意見を発信している人々もね、やろうと思えば、本心が届くと過信しているんですよ。今は本気を出していないだけだってね。でもね、三島由紀夫に無理だったのに、腹を切る覚悟でも声が届かないのに、あんなところで拡声器で叫んでも、難しいんですよ」
『砂漠』p200/伊坂幸太郎

『砂漠』の登場人物、西嶋の言葉を読んでから、三島由紀夫自衛隊市ヶ谷駐屯地での演説のことが頭にひっかかってた。
はてブで知ったyoutubeの動画(http://www.youtube.com/watch?v=tzz1-ppIjOg)には、その三島由紀夫自衛隊駐屯地にいる場面とそこで訴えた言説に繋がるだろうインタビュー映像もついていて、興味深く見たのだけど、まあ、結末を知っているからこそ、なんだか切ない。
このインタビューでは、どうやら何かの本(「??」の部分)について話しているみたいなんだけど、そこが聞き取れない。【コメント欄にて『葉隠』だと教えていただきました。sasakiriさま感謝です】そのうちなくなるかもしれないので以下がインタビュー部分(聞き取りなので間違ってるとこあるかもしれないけど)。

武士は普段から武道の鍛錬をいたしますが、なかなか生半可なことでは戦場の華々しい死なんてものはなくなってしまった。そのなかで汚職もあれば斜陽族もあり今でいえばこのアイビー族みたいなものも侍の間で出できた時代でした。
そのなかで「葉隠」の著者はいつでも武士というものは一か八かの選択のときには死ぬ方を先に選ばなければいけないということを口をすっぱくして説きましたけれども、著者自身は長生きして畳の上で死んだとあります。そういうふうに、武士であっても結局死ぬチャンスをつかめないで死ということを心の中に描きながら生きていった。そういうことで仕事をやっていますときに、生の倦怠といいますか、ただ人間が自分のために生きようということだけには、いやしいものを感じてくるのは当然だと思うのであります。
人間の生命というのは不思議なもんで、自分のためだけに生きて自分のためだけに死ぬというほど人間は強くないです。というのは人間はなにか理想なり、なにかのためということを考えているので、生きるのも、自分のためだけに生きることにはすぐ飽きてしまう。すると死ぬのも何かのためということが必ずでてくる。それが昔言われた大義というものです。そして大義のために死ぬということが、人間の最も華々しい、あるいは英雄的なあるいは立派な死に方だと考えられていた。
しかし今は大義がない。これは民主主義の政治形態というのもが大義なんてものはいらない政治形態ですから、当然なんですが、それでも心の中に自分を越える価値が認められなければ、生きてることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。

三島由紀夫にとっての大義、が何だったのかはわからないけれども、ここには明らかに「死」に向かって生きているという感覚がある。仮に武士とはそのようなものであったとして、武士がいた時代の、武士以外はどう考えていたのだろうか。華々しく死ねるというチャンスがあったら、それに飛び込んでいったのだろうか。
「華々しく死にたい」という気持ちは、今の感覚でいえば「死んだ後に何かを残したい/覚えていて欲しい」という心に近いのかもしれないけれど、この気持ちが、私にはどうもわからない。……なんて言ったら女にわかってたまるかよ、返されそうだけど、ただ、その「死」は死後を見てるのか、自分の「生」の結末として捉えているのか、そこに興味がある。
三島由紀夫の場合は、「生」の結末であったのではないかと思う。そして彼は「自分のためだけでなく、なにかのために生きたい」という言葉の帰結として『諸君は武士だろ』と語りかけ『諸君のなかに一人でも俺と一緒に立つやつはいないのか』と声を張り上げたのではないか。

もう少し自分の感覚に引き寄せて考えてみると、「なにかのために生きる」ということは、つまり「自分の価値/意味」を、外部に保証されたい、ということなのかな、と思う。その外部が客観的な自分の目線であることもあるかもしれないけれど、自分の存在理由として、何か明確で強固なものを求める。それは同時に、なにかによって生かされたいということでもあって。
例えば「誰かのために生きる」ということにも、愛や対抗や奉仕や、様々な形がある。だから、その気になれば、意味を見いだすことなんて簡単だろうけれど、簡単には満足できないのは、やっぱり人は自分のために生きているからではないのか。
腹を切る覚悟でだって、人の心を動かすことは難しい。それでも伝えたい「自分」のために生きることで、いつかそれを理解してくれる相手にこそ、生かされることができるんじゃないかと夢見る。そんな風に感じるのは、ちょっとロマンチックすぎるかもしれないけれど、何と言うか、「意味」や「価値」というのは厄介だな、と思う。