意味がなくって悲しい

それにどんな意味があるのか、と問われることは何だか悲しい。特に、その「意味」の意味が「価値」である場合にそう感じることが多い。
たとえば、ピアノを習っている私が発表会に向けて練習をしているところに「ピアノなんて習って、何の意味があるの?」と問われたとする。私はそれが楽しいからだ、と答える。すると、その人はこう言う。「じゃあ、発表会なんてする必要あるの?」
ああそうか、ブログでもいいや。「なんで日記書いてるの?」「楽しいからかな」「じゃあなんでそれをwebにあげる必要があるの?」
私がこの日記のことを知人にいわない理由のひとつは、その問いに答えるのが面倒だからだ。もちろん、私にとっての意味や価値を答えることは簡単だ。友人が相手なら、納得してもらうことだってそんなに難しくはないだろう。
じゃあ、なぜ「どんな意味があるの?」と問われることが悲しい、もしくは鬱陶しいのか。
まずは、問う人にとっての「それ」には価値がないのだということが伝わってくるから、だと思う。意味を問われるということで、ああ、この人は私のピアノにも日記にも、興味はないのだなぁ、ということを再確認する。でも、それは確かに切ないことではあるけれど、そのことは私にとっての意味や価値を損ないはしないだろう。
本当に悲しいのは、自分の中でわけもなく魅力的だったそれに、他人にもわかる意味や価値を探してしまうようになることだ。そしてやがて、共通言語としての意味や価値を通して評価されることが、目的になってしまうことだ。
もちろん、評価されることを否定しているのではない。ただ、それを目的に行動するということは、評価されなかったときに、それまでが無価値になるという「錯覚」を起こさせるもののように思う。つまり、私はそれを「錯覚」だと思う。

生きる意味

それでも心の中に自分を越える価値が認められなければ、生きていることすら無意味になるというような心理状態がないわけではない。
三島由紀夫のインタビュー(id:ichinics:20060723:p1)より

ないわけではない、とか、曖昧な言い方をするなよ、と思いますけど、ともかく「心の中に自分を越える価値を認める」ということが三島由紀夫にとって切実な目的であったことは確かだろう。そして、もしかしたら、三島由紀夫は自らの死をもってしてその考えを世に知らしめるということを夢見ていたのではないか、と思う。
それが成功したのかどうかはわからない。ただ、彼が優れた作家でなかったなら、これほど多くの人にその死が知られることもなかったのではないかと思う。しかし、その切実さは「他者によって認められること」なしには無価値だったのだろうか。そもそも「自分を越える価値」が認められなければ、生きていることは無意味なのだろうか?
そんなことはない、と私は思う。生きていること、それ自体に意味はない。種の存続なんてのも、それを意味としてとらえるなら後付けでしかない。それは多くの人によって支持されている意味であり価値だけれど、種を存続しなかった/できなかった人生を無意味にする力はない。なぜなら、意味や価値なんてものはもともとなく、そして後からいくらでも見つけることができるものだから、と、私は考える。
ただ、意味もなく意味が欲しくなることはある。その意味が「生きる意味」になって、人が生きる上でのガソリンのような役割を果たすこともある。だから、意味を失うことでうろたえたり、悲しくなったりすることもある。
でも、それは自分だけで手に入れることができるものなのだから、失うことを恐れる必要はないんじゃないかって、思う。

今日が終わっても 明日がきて
長くはかなく 日々は続くさ
意味なんかないね 意味なんかない
今にも僕は泣きそうだよ
『BABY BLUE』fishmans

この曲を聴いていると、泣きそうなのは、意味がないからのように思える。でも、それが悲しいのか嬉しいのかはわからない。そして、ずっと聴いていると、これははじまりの歌のようにも聴こえるんだった。真っ白な場所に、陰影をつけて、それを真っ白に戻す。その作業のどちら側がはじまりかなんて「私」にしかわからない。生きる意味とかも。

関連

「意味」なんてないんじゃないか/ id:ichinics:20060306:p2