私がその質問にこだわる理由はたぶんこれ

ちょっと前に読んだ「マンガは哲学する」(ISBN:4062568721)で、ちょっと興味深い話があった。永井均さんが通っていたキリスト教系の幼稚園での出来事で、永井さんがやったいたずらのぬれぎぬを、なんと真犯人を知っている永井さん以外の全ての生徒から、着せられたケンジちゃんという少年についての思いで話の下りだ。ヒトシ(永井さん)とケンジを呼び出した先生が真犯人を知った後でのこと。

先生はつぎに、嘘をついた子どもたちを集めて「ケンジちゃんではなくヒトシちゃんがやったことだったのに、なぜケンジちゃんがやったのを見たなどという嘘を言ったのか」という詰問を開始したのである。私はこのとき、少なくとも嘘をつかなかったことによって、自分が彼らよりも道徳的に優位にあると感じた。そのときの感じが「神さまにゆるしてもらえる」というよりはむしろ「ほめてもらえる」だった。たぶん、ケンジちゃんはなおさらそうだったにちがいない。
「マンガは哲学する」p193-194

どうなのかなこれ、宗教、特にキリスト教に触れたことがない人には「えー」と思うようなことなのかもしれないけど、私がなれ親しんで、抜け出したいと思った感覚がまさにこれだ、と思い、なんだか参る。
私の家は、両親ともにクリスチャンだ。といってもかなり「ゆるい」クリスチャンなのでそう称したら怒られそうだけど(だって今では教会すら行っていない)、私が幼い頃は両親も気合いが入っていた(長女だからだと思う)ため、小学校低学年くらいまでは毎週日曜日には日曜学校に通っていた。
子供だった私の理解するキリスト教の構図とは、漠然と信仰に対する報酬/信仰しないことに対する罰、ということだった。報酬は手に入れたいものであることに疑いはなく、死の瞬間が何かの試験であるかのような印象を受けた。その辺りのことは以前(id:ichinics:20060517:p2)にも書いたことがあるけれど、ともかく私は次第に「それって報酬を目当てにした信仰なんじゃないの」という疑いを抱くようになった。
例えば上に引用した永井均さんの例でなら、嘘をつかなかったことで「神さまにほめてもらえる」としたら、それは結果的に「嘘をつけなかった」からではなく、自らの意志をもって「嘘をつかない」という選択をしたからでなければならないんじゃないか。神にほめられるということが仮にあるとしたら、それは、つまり自分自身に嘘をつくところがない状態でなければならないんじゃないのか?
例えば「なぜ人を殺してはいけないか」という質問に対し、それはキリスト教で悪とされているから、と答えたとする。それでは、悪とされていることを、なぜしないのか。それは『殺人という「失敗」を犯してしまうことでこれまで積み重ねた全ての善行をパアにしてしまうなんて』という、下心があるからなんじゃないか。

もちろん。この理解の仕方には間違ったところがたくさんあるし、私はキリスト教を批判したいわけではないです。ただ、与えられた宗教をそのまま信仰するということは、このような思考回路を生みやすいんじゃないかと思うし、それはとても危ういことだと感じる。
「なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに「法律で禁止されているから」などと答えるのも同じことだ。「倫理、宗教、法律」が、それを守ったからといって何も保証してくれないものだったとしたら、どう答えるんだろう?
「なんとなくイヤだから」でもなんでも、自分にとって嘘のない答えを探すことに、意味がないとは思わない。そして、私がそれを切実に感じるのは、私にはあらかじめ与えられた前提を疑うことからはじめるしかなかったからなのかもしれない。
そうして、自分が手に取ったものを、手に取ったということ自体で、大事にしたい。今はそう思う。