宇宙と自分

歴史的な宇宙の像の変化はどれもかなり劇的な変化だと思うが、なかでも天動説が地動説へと、自分のいる場所を世界の中心ではなくて球形をしていて太陽の周りを回っていると推論した変化は、科学の本質的な発想を示していて、地動説には「自分」とか「自分のいる場所」をあたかも第三者として見るような相対化の作用がある。p91

「<私>という演算」を読んでて考えてたことの続き。上の引用文にででてくる「あたかも第三者として見るような」というのは、それが明確な視覚イメージとして与えられる前の、推論の段階でのことを言っていて、ここでは小説を描くことと重ねられてもいる。
私はここを読みながら、地動説についてあらためて想像してみると、それが「事実」なのだということに改めて驚いてしまった。これは言葉を正しいこととして与えられること(p172)の快楽とは別の話なのだと思う。だって実際に地球の外に衛星が浮かんでいて、私もまたそれを利用して生活しているはずなのだ。それを確認したことはないけれど、それが事実だということは教えられてきたし、幼い頃の自分は星大好きっ子だった。でもその頃には、それが私がここにいるということとつながっている気がしていなかったような気がする。それはつまり、自分の存在を外界と区別していなかった頃のことで、それは同一に見ていたということとは違うのだけど、うまく説明できない。
ただ、自分は自分からしかものを見ることができないと気付くことは、同時に外側から「あたかも第三者として」見ることを知るときの感覚に近いのではないかと思う。
そしてあまりにも広く、漠とした宇宙というものを思う時に感じるのは、そのわからなさに対する曖昧な心強さのようなものであり、自分という存在が極めて小さいことを思うと、なんとなくおおらかな気分になってしまうのだった。