ヴォネガット最初の長編小説である『プレイヤー・ピアノ』は、その後に書かれた、私が読んだことのあるいくつかの作品と比べると、とてもシンプルな筋の作品であり、登場人物一人一人がとても印象に残る物語だった。そして、その一人一人の人間くささ、そしてラストに向かうほどに混乱していく所などが、いかにもヴォネガットらしい。
- 作者: カート・ヴォネガット・ジュニア,Jr. Vonnegut Kurt,浅倉久志
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2005/01
- メディア: 文庫
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ニューヨーク州イリアム市は、三つの区画に分かれている。
北西部には、管理者と技術者と公務員、それに少数の医師と弁護士が住んでいる。北東部には機械の勢ぞろい。そして、イロコイ川を隔てた南部は、地元の人々からホームステッドと呼ばれている地域で、ここに市民の大半が居住している。p9
なるほど、と思った通りのことが、ここでは問題となる。つまり機械が人間の仕事を、それ以上にうまくやるので、人間は仕事を選ぶことができなくなった。その分便利にもなっているのだが、それは結果的に機械に仕事を「奪われた」人々をうみ、人間の「能力」も機械に管理されているので、そのデータがなによりもものをいう息苦しい世の中になっている。
物語のアクセントになっているのが、ちょうど海外からアメリカを視察にきている国王(シャー)の発する無邪気な言葉たちだ。
「あらかじめ、大衆がどんな本を何冊くらい要求しているかを知っておくのが、文化をこれだけ安くあげる秘訣です。ジャケットの色にいたるまで、これ、とまちがいのないものを選ぶわけです。グーテンベルクがもし生きていたら、きっとびっくり仰天するでしょう」
「グーテンベルク?」とハシュドラール。
「そう ―― 活版印刷技術の発明者。はじめて聖書を大量印刷した人物です」
(略)
「シャーは、その人物もまず市場調査をしたのですか、とたずねておられます」p343
こういった言葉は皮肉に感じるけれど、シャーは何も価値判断をしているわけではない。ただ、その言葉に翻弄されるハリヤードのように、そこになんらかの後ろめたさを感じるからこそ、皮肉だと感じるのだろう。
主人公のポール・プロテュース博士はエリート中のエリートであり、将来を約束されている人物だ。しかし、どこか居心地の悪さを感じ、川向こうの人々に認められたいと思うようになる。物語は彼の葛藤を中心にじりじりと進み、やがて、体制側と反体制側の人々の争いに発展していく。
機械を使うのも機械に使われるのも、人間の感じ方でしかない、と割り切るのは簡単だけど、価値転倒が起こる臨界点のようなものはどうしてもあるだろうし、だからこそこの物語にはリアリティがある。機械はただ動き続ける。ただ問題が起こるのは全て、人間が「このままでいられない」という厄介な生き物だからだ、ということに尽きるみたいだ。
そこにあるのは自由意志と呼ばれるものだろうか? しかし主人公の感じていることは、嘘なのか本当なのか、それは彼にも機械にも、わからない。