保坂和志&柴崎友香トークショー@青山ブックセンター

ichinics2006-10-01

保坂和志さんの「小説の誕生」と柴崎友香さんの「その街の今は」刊行記念のトークショーに行ってきました。
主な目的は、保坂さんの話しているところを見てみたい、ということだったのだけど、実際に聞いて見てしまうと、イメージというのはどんどん消えていくもので、もともと思い描いていた人物像があったのかどうかも、わからなくなってしまった。
トークショーは柴崎さんのお話から。岡本太郎さんがメキシコで制作した「明日への神話」を見にいったときに、解説員の方が「この骸骨がわらっているのは、どんなときにもポジティブに生きていこうということを意味していて」なんていっていて、そんなこといったらあかんやんって、」と話したのに対し、保坂さんがそれを受けて道元いわく、座禅は悟りを得るための手段ではなく、座禅に打ち込むことそのものが悟りである、と」ということを返していた。
つまり「明日への神話」の解説としてあるメッセージのようなものを小説に求めるのではなく、書いてあることそのものに意味があるのだということを話していたのだと思う。それは最後に、見にきていた方からの「小説という言葉はなぜ小説なのだと思うか」という質問に対し「言葉の意味なんて考えなくてもいい/名詞からものを考えない訓練を積まなければ」と返していたことと、つながるんじゃないかと思ったりした。
保坂さんはわりと「断言」する方だったので、ときおり抵抗を感じる部分もあったのだけど、話しながらイメージが連なって続いていく感じが、文章であらわれている感じと重なっていて、面白かった。
それから柴崎さんの描く「会話」の話になって、かみ合い過ぎている会話の不自然さについて、聞いているときに思い出したのは映画「犬猫」だった。あの、心が余所にありながら、会話が続いていく感じが、柴崎さんの小説にはあるような気がする。それは自然なことであり、小説としてあらわれるのは希有なことだ。

「小説の誕生」と「その街の今は」は会場で買って、サインしてもらいました。保坂さんと間近で少し言葉をかわしたら(非常に手慣れてらした)、あーこの人も人なんだなとか当たり前のことを思ったりする。
しかし小説を書く人にとって、読者と相対するってのはどういう気持ちがするものなんだろうか。私が保坂さんの本を読む時は、いつもじっくり没頭してしまうので、親密な読書体験をした気分になるのだけど、その親密さはあきらかに目の前にいるこの作者の人とは別のところにあって(当たり前だけど)、作者の人は目の前に人として現れれば大抵は「知らない人」としての印象の方が強い。そうすると文章っていうものにも何かしら体のようなものがあるような気がする。