美しさ

安倍首相が訴える「美しい国」という言葉を聞くたびに、違和感がある。
「美しい」という言葉は「良いもの」を指す言葉として使われているのだろうけれど、「(国を)良くする」にあたって、「美しさ」は、重要なことなのだろうか。

何を「美しい」と思うかは、人それぞれだけれど、生きるうえで必要とされる「感覚」のうち、たとえばおいしいとかやさしいとか楽しいとか、そういった「感覚」よりも、美しさは遠く、近寄りがたいところにあるんじゃないだろうか。そして、日常から遠いからこそ、珍しく、貴重な、贅沢なもの、というニュアンスを含んではいないだろうか。
わからない。でも、私が生活に求める「美しさ」の優先順位はそんなに高くない。それはめぐりあえたらうれしいものだけれど、「美しさ」のために、必要なものをあきらめる気持ちにはなれない。なぜなら、美しさは生活必需品ではないからだ。例えば、美しい家具よりも、落ち着く家具、美しい食材よりも、おいしくて新鮮な食材、美しい町よりも、安全な町が、生活する人には求められてるんじゃないのか(あくまでもイメージ、ですけど)。
だから「美しい国」という言葉を聞くたびに、国を運営するにあたって、美しさというあまりにも漠然とした価値観を提示するのはなぜなのだろう、と考えてしまう。

例えば、自然を守るために、ゴミ問題を考えなきゃいけないとして、なぜ自然を守らなければいけないか、というのに「それが美しいから」というのはなんかへんじゃないか。や、それが個人の意見ならばべつにおかしくないけど、それ以前に公の場ではルールを守る、というのが社会ルールだとされているはずなのに、美しさという個人の感覚を定義するのは居心地がわるい、し、美しくなくたって守らなければならないものはあるはずだ。