「自我」とか「主体」って何なのか

「世界をよくする現代思想」を読んでいて、もっとも気になった部分は「超越確実性言明」についての箇所だった。振り返って前に読んだ「<私>のための現代思想」の感想*1を読んでみたら、結局同じところでひっかかっていた。

ヴィトゲンシュタインは「自我の発生」を、「超越確実性言明」という概念で説明しました。超越確実性言明とは、「ある人間が、無根拠に信じている言明の束」のことです。たとえば「私は高田である」とか「私は考えている」とかです。これらを「命題」として疑うことは可能ですが、「無根拠に、それを疑わないと決めた」ことを「超越確実性言明」と呼びます。超越確実性言明はたくさんありますが、その「束」こそが「自我」です。p185

「自我」とは、「世界を引き受ける究極の要素」です。個々の主体が「世界を引き受ける」ことによって、もしくはそれによってのみ、「世界」が存在します。「主体」が存在しない以上、世界は存在しません。「引き受ける者」が存在してはじめてこの世界は「存在すること」になります。
しかしながら「主体としての自我」の存在は否定されます。なぜなら、自我とは「『私』という言語ゲーム」の中で発生する「機能」でしかなく、そのとき「主体」とは「『私』という言語ゲームを行っている何か」となるからです。p187-188

「「<私>のための現代思想」でひっかかっていたのは、この流れをわかってなかったからなのだと思う。が、その後に続く「「主体としての自我」の存在は否定されます」というとこは、やっぱりわからない。「超越確実性言明」の束が自我、というのは納得できるのだけど、「個々の主体が「世界を引き受ける」ことによって「世界」が存在するのに、なぜ「自我」は「主体として世界を引き受けるもの」になりえないのだろう。
そもそも「自我」とまとめられているものの中でも「属性」と「自我」は別個に思えてしまうのだった。そして他者なしに存在しえないのは「属性」のように思う。
他者としての私が人を見るときに知ることができるのは「属性」までだろう。「属性」には他者からみた私の「性格」なども含む。その「性格」だって、私がとらえているものと外がとらえているものとは異なる。そもそも自分にとって、自分の性格なんてどうでもいいのだ。他者と接するために、性格というのは調整していかなければならない(ときもある、という意味であって、調整が必要ないこともあるし人もいる)。しかし、私の知る「私の性格」もまた、私という他者によってとらえられる「属性」だったりする。私の吐く言葉は全て私の「属性」だったりする。そうやって自分を構成する要素のほとんどが「属性」だとしても、でもその網からもれる何かが、あるような気がする。ほんとに「人は属性が10割」(http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20060101#1136121159より) なのかなあ? と思う。なんで私はこの「属性」なのかと考えると、「主体としての属性」は否定されるような気がする。

私が私の世界をどう感じているか。それは私にしか理解できないことらしい、ということが、私にとっての「考えたいこと」だ。「感じているか」の方ではなく、「私にしか理解できないこと」があるのというところが、逃れられない何か、であるように感じる。もちろん全ての「私」にとって。
私が知ることのできる世界は「私の世界」であって、その風景をひとに伝えることができない。それはなんでなのか。「私の世界」は私がいる限りあるけれど、私がいなくなったあとにはたぶんない。それはなんでなのか。「私が生きている限り私が不死身」なのはなんでなのか。
とかね。考えてるんですが、何か欠落してる視点があるのかもしんない。