昨日の追記

michiakiさんのとこでいただいたコメントで、だいぶ腑に落ちました。

ほかの私に自由になれないのは、技術的問題(まだ攻殻の世界ではない、ということ)がひとつ、と、もうひとつは、「ほかの私になってもそれを感知することはできない(ので入れ替わってもわからない)」ということもあります。記憶も属性とするなら、もし<わたし>が他の人の中に入ったら、単に「その人になる」だけだからですね。(aozora21さんがブクマコメントで仰ってる通りです)
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20061023#1161536188#c

そういやそうだ。記憶が連続していない(マップも参照できない)という状況で、わたしが「このわたし」であることを知る手がかりなんてないし、それはもう今の「この」わたしではなく、「その」わたしなんだってとこを、ちゃんと整理できてなかった。
そして、それをふまえて考えてみると、なぜ私は「この」私なのか、と考えることは「私は私の見るものしか見れないし、聞くものしか聞けない」という属性の話になる。なるほど。

でも、なぜ属性をもったまま、ほかの属性の束と自我を共有できないのかっていう疑問はまだ残る。インプットが違うから? それとも、今のところ人はいっぺんにひとつのわたししか処理できないからだろうか。
例えばおんなじ信号を与えられ続けた双子の(とりあえず人工知能ではなく)、Aという事柄に対する反応は、同じはずだけど、同じだということを確かめるすべがないように思う。
「私的言語はない」といわれると、言語は「共有されている」のかと思うけど、そこはイコールじゃないんだろうな。これはもちろん言語じゃなくても、そうだ。

それで私は、共有できるものが、あることを知りたいのか、ないことを知りたいのか、どっちなのかな。