ならぬわけ

北海道と福岡の児童・生徒がいじめを苦に自殺するなど、学校でのいじめが社会問題化する中、江戸時代の「什の掟(じゅうのおきて)」が教育関係者の注目を集めている。会津藩が藩校「日新館」入学前の子供たちに唱えさせたおきてで「弱い者をいじめてはなりませぬ」など7項目と「ならぬことはならぬものです」の結びの1文で構成される。現在は博物館となっている日新館には、全国の学校から問い合わせが連日届いている。
http://www.nikkansports.com/general/p-gn-tp0-20061029-109918.html

倫理が通用しなくなったので、「ならぬものはならぬ」と教えようというのなら、それは逆戻りじゃないのか。ならぬものがならぬ理由として倫理があみ出されたはずなのに、それを放棄しようとしているように感じる。「ならぬ」「なんで?」「ならぬものはならぬからだ」という会話が思い浮かぶようだ。便利だ。そしてなんの効力もない。やがて、効力をもたせるために、罰があみ出されるだろう。
どうにもならないことは確かにある。でもそれを、ならぬものはならぬ、で説明しようとするのは、横着ではないのか。どうにもならなさの解決にはならない。個人の解決策としてはありかもしれないけど、ならぬわけの説明にはならないし抑止力にもならない。なぜならそれは、ならぬわけを考えさせないための言葉だからだ。
今、「愛はさだめ、さだめは死」を読んでるのですけど、そこに収録されている「接続された女」にこんな台詞がある。

公共の場所での自殺は重罪だよ

皮肉だ。