おとぎ話が足りない

「一切のおとぎ話をひきはがした」後に残る、絶対的絶望を直視する、という、一見、潔い行動は、実は、「自己意識宇宙の絶対的な終焉である死」という「おとぎ話」を見つめていただけなのではないのか?
死の恐怖は、死が永遠の絶対的虚無であることからやってくる。
しかし、そもそも、「永遠」など「存在」するのだろうか?
われわれは、「永遠」という名の「おとぎ話」に踊らされてはいないか?
http://d.hatena.ne.jp/./fromdusktildawn/20061101/1162352701

一切のおとぎ話をひきはがした後に、絶望や無気力が残る(回路が作動する)、というのは、なるほど、と思った。
しかし、死の恐怖、というのは「永遠の絶対的虚無」であることにあるのだろうか? 私は、死んだ後も、自己意識宇宙というものが「永遠に続く」としたら、そのほうがずっと恐ろしいことのように思う。
終わりがないということは恐ろしい。
でもそれが恐ろしいのなら、最初から無であることを知って/薄々感じ取っているのなら、なんで一切をすぐに終わらせないのか、と聞き返されるかもしれない。そこを、考えてみるべきなのかもしれない、と思う。
私が恐いのは、自分と関わる他人の「絶対的な終焉」の方だ。だからだ、と答えるのはごう慢にすぎるかもしれない。しかし、その「自分」というおとぎ話こそが、この私に力を与えてくれるのではないだろうか。
「神は死んだ」という言葉によってもたらされたものが、キリスト教における天国という永遠が虚構であったという「おとぎ話のひきはがし」だったとして、しかしその後に訪れたのは絶望だったのだろうか。むしろ誘惑だったのではないか、と思う。

神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ。世界がこれまで持った、最も神聖な、最も強力な存在、それが我々のナイフによって血を流したのだ。この所業は、我々には偉大過ぎはしないか?こんなことが出来るためには、我々自身が神々にならなければならないのではないか?

宗教や国家などの大きなおとぎ話は、時として抑圧にもなるけれど、多くの場合は小さなおとぎ話への執着が、死という「終わり」へ対する恐怖を生み、またおとぎ話を手に入れられないという葛藤が、もともと下地にあった絶望とか無気力の回路を開き、底が抜けるのではないか、もしくはガソリン切れの状態を引き起こすのではないか、と思う。
自分という存在は限りなくゼロに近かったとしても、この自分という世界の中ではもっとも大きなおとぎ話だ、と私は思うけれど、それもただの燃費の良いおとぎ話に過ぎないのかもしれない。
楽観的なんだか、悲観的なんだか。

生きているのはひまつぶし 深沢七郎未発表作品集

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これを読みながらそんなこと考えた。内容が関連してるわけではないんだけど。