愛はさだめ、さだめは死/ジェイムズ・ティプトリー・Jr

たったひとつの冴えたやりかた」にしろ、この「愛はさだめ、さだめは死」にしろ、タイトルの付け方が(そして翻訳が)かっこよすぎる。

人間が六十歳になるころには、脳は信じられないほどおびただしい共鳴に満たされた場所になる(とわたしは思う)。人生と、歴史と、過程と、パターンと、ちらちらのぞき見された無数のレベルのあいだのアナロジーとで、ぎっしり詰まっていることだろう……。老人たちがひまをかけて返事をするひとつの理由は、あらゆる単語とキューが千もの連想を目覚めさせるからだ。
もし、かりにそれらを解き放ち、開けはなすことができたら? 自我と地位を捨て、あらゆるものを外に出して風の匂いを嗅がせ、衰えてきた感覚に、そこにあるもの、成長するものを感じさせよう。あなたの無数の共鳴はおたがいに融けあい、たわむれあい、変化をとげてもどってきて……新しいことを告げてくれるだろう。
p18

冒頭に掲載されている、ロバート・シルヴァーバーグによる解説の中で引用されていたティプトリー・ジュニアのエッセイの一文に、思わず寝ぼけた目が開く(解説自体も面白い)。この本には12編の短編が収録されている。全体的に最初に読んだティプトリー作品「たったひとつの冴えたやりかた」とはイメージの違う、どちらかというと硬質な作品が集まった短編集だったけれど、エッセイにある自由さと可能性に惹かれ突き動かされているような印象は、彼女の作品に共通する美しさでもあると思う。

最も印象に残った「接続された女」は、自殺未遂をした醜い女性が科学者に拾われ、美しい肉体の中に生きるお話。

ひとつだけ、はっきりさせとこう。P・バークは、自分の脳がサウナ部屋にあるとは感じていない。あのかわいい肉体の中にあると感じてるんだ。オタク、手を洗うときにさ、自分の脳みそに水がかかってると感じるかい? むろん、ちがうよな。両手に水がかかってると感じるだろう? その“感覚”なるもの、実はオタクの両耳のあいだに詰まった電子化学的ゼリーの中で、チカチカまたたくポテンシャル・パターンにすぎない。しかもそいつは、オタクの両手の先から、ながーい回路をとおって脳に届いたわけさ。ちょうどそれと同じ理屈で、キャビネットの中のP・バークの脳も、トイレの中で両手にかかる水を感じてる。その信号が途中で空間をジャンプしたって、べつに違いはない。p165

こんな文を読んでると思わず楽しくなってしまうのだけど、同時に、悲しくてメロドラマで滑稽な物語でもあった。何よりも皮肉なのは、彼女自身がそれを望んでいることだ。自分への執着が否定であるということ。
ラストに収録された「最後の午後に」と、表題作「愛はさだめ、さだめは死」では、自分の意識、心、感情というものは「支配」できるものではないということを思い知らされる。どちらも切ない話だけれど、「接続された女」とは正反対の物語だともいえる。
突き放すようなラストも多いけれど、どこかでこだわり続け、葛藤している部分があるようにも感じる。そこが「甘さ」と評されることの多い部分でもあり、魅力なのかもしれない。