シークエンス

場内が明るくなると、立ち上がった人々はそれぞれに手近な扉へ向かい、また同じエレベーターの前に集まり、乗り合わせて沈黙し、その扉が開いた瞬間に流れ込む笑い声に、数人が顔をそむけ、また数人は足早に町へと消える。私は最後、笑い声と入れ違いにエレベーターをおりて、横断歩道へと向かい、知らない背中の後ろで信号待ちをする。静止している私の後ろでは、行く川の流れは絶えずしてところどころに淀み、飲み会、キャッチ、携帯電話、ため息、舌打ちの入り組んだ流れは信号が青になると同時に散開する。タイミングを逃した私の背に人がぶつかり、私はおざなりな会釈とともに道の端に寄ることで、道の向こうにある書店に向かうことにきめる。
そんな些細な風景も、実はいくつものシーンが重ね合わさったシークエンスであり、場面は全てそうやって出来ている。それを「仕組み」といってもいいし、「奇跡」といってもいいけれど、それを「場面」としてとらえること、あの頭上が明るく空と足下の暗い風景を切り取るということは、その後にしかなくて、そしてなくてもよくて、流れてしまった数多くの風景は、存在しない。
名前をつけるということは、そこにとどめることなのかもしれない。「場面」にすることも、写真をとることも、物語にすることも。まず最初に意識がそれを見つけることで、存在するのかもしれないと思った、映画館からの帰り道。