「トゥモロー・ワールド」の終末観への違和感

映画『トゥモロー・ワールド』は、私の見聞きする中でもとても評判が良くて、その感想に共感するところも確かにある。曖昧な感想*1を書いたまま、でもなぁ、って、ずっともやもやしてた部分について、マトモ亭さんの感想がとてもうまく言い表してくれてた。

設定として、もう全世界で18年以上、子供が産まれてきてないって話しなんだけど、それ、すごい大変な事態じゃないですか?
(略)
ワス、そんな事態になったら、生きている人は、人生をまっとうさせる努力を始めると思うんだよ。
それなのに、なぜか、イギリスは移民排除(何の為に?)を強力に推し進める警察国家みたいになっていて、どうしてそうなるのかが良くわからない・・・
そんな事態になっても、そんな事態だからこそ、そういう管理社会が強固になるというなら、その『だからこそ』を描いて欲しかったし、いきなりそれを自明のコトとされてもなぁ・・・
http://d.hatena.ne.jp/./throwS/20061124#1164367493

そうなんだよなぁ。なんで「子供が産まれない」という事態が人を排除/攻撃する方向に向かうのかがわかんなかった。
例えば、「終末のフール」という伊坂幸太郎さんの小説*2では、8年後に地球に隕石が衝突する、と発表され、5年の間混乱が続いた後の、少し落ち着いた世の中を描いている。ここで「混乱した」世界があった、というのは想像できる。それは自分達の死に関わる事態であり、どこにも逃げられない、という焦り、恐怖が混乱に繋がる。でも、人はいずれ死ぬ。それならば、あらかじめリミットが定められていたとしても、その、ひとつひとつの生の重みはかわらないんじゃないかってことが、ほんのり提示される。
たぶん『トゥモロー・ワールド』にあったテーマも、それと近いものだったのではないかと思う。でも、そのテーマと、設定が、私の想像できる範囲から、少しずれていたような気がするのだ。
例えば、映画の中に「ここにあるものを、百年後には誰も見ない」というような印象的な台詞があった。これは、誰かに見られることによって、思い出されることによって、自分が「(死んでも)ある」という希望を、子供の誕生に重ねているのかなと思ったけれど、それなら、私は今そこにある、あなたの/自分の人生のことを考えたいと思う。
「終末のフール」にも、子供が産まれる話があって、あと三年しか生きられない世界に、産むべきかどうかの葛藤が描かれている。子供だって、今ここにいる自分と同じように人生がある。その視点が、映画には欠けていたようにも思う。18年間子供が産まれていない世界を、最も恐怖しているのは、19歳の若者なんじゃないか。自分が最後の一人になるかもしれない恐怖。そして、その恐怖は、人を攻撃するだろうか?
そもそも、子供が産まれず、人類に未来がない、ということが、なぜ命を軽んじる方向に向かうのか。殺しあってる場合じゃないんじゃない?
本当にそんな未来があったとしたら、子供が産まれないかわりに、自殺防止どころじゃなく、今生きている人の生がコントロールされる管理社会に向かうんじゃないだろうか。

とはいえ、この映画を批判したいわけでもないのです。いろんなことを考える、いい切っ掛けになったと思うし、もっといろんな人の感想を、読んでみたいと思う。

終末のフール

終末のフール

*1:id:ichinics:20061123:p1

*2:感想:id:ichinics:20060413:p1