品格と品性(昨日の続き)

トーハンの年間ベスト*1を見たら、一冊も読んでなかった私ですが、中でも「国家の品格」という本が、トーハン集計で1位になるほどまでに売れてる、というのには驚いた。勉強不足。
ただ、この「国家の品格」というタイトルは、どういう意味なんだろうってのはずっと気になっていて、「すべての日本人に誇りと自信を与える画期的日本論!」という帯の文句の通りならば「美しい国」と同じような意味合いな予感がするし、だとしたら用はないのだけど、誰か読んだ人がいたら、簡単に説明してほしい、と思っていた。その「品格」とはどういう意味で使われているのかということを。

最近村上春樹のことばかり書いているのは、「グレート・ギャツビー」を読んでいるからだ。満を持してであるだけに、今まで訳したどの作品とも異なる、親密な空気に満ちた訳だと思う。そのことはまた別の日に書くとして、ともかくギャツビーだ。ギャツビーの、自身の理念に忠実であるさまに胸を撃たれつつも、その理念を動力にするあやうさについて考え、少し考えがずれたところで思い出したのがこの場面だった。

かつて誰もがクールに生きたいと考える時代があった。
高校の終わり頃、僕は心に思うことの半分しか口に出すまいと決心した。理由は忘れたがその思いつきを、何年かにわたって僕は実行した。そしてある日、僕は自分が思っていることの半分しか語ることのできない人間になっていることを発見した。/p109

「思うことの半分しか口に出すまい」ということと同じように、私にも決心したことがたぶんあって、それはいつしか実行しているということに気付かないほどに、「思っていることの半分しか語ることのできない」くらいに、なじんでしまった、と感じることがある。
例えば、好きな言葉、嫌いな言葉、と個人的な好悪で使い分けているはずの言葉も、じつはそれまで積み重ねられた背景、歴史に左右されているだけの得意不得意と同質なんじゃないか。そして、そのような背景を取り除いていったら、言葉は形でしかなくなるんじゃないか。
多くの場合、私は私の選んだ言葉を使いたい、と思っているけれど、それを全部放り出す、ということはそもそも可能なんだろうか。それが不可能だとしたら、それは自らの言葉に捕われているということと、とてもよく似ている。
なじんでしまったものから自由になるためには、それを放り出すのではなく、中にあるものを知ることで、輪郭をおもいえがくような、ただしんとした気持ちで待つことが、肝要なのではないでしょうか。と、勢いで自問してみるけれど、漠然としていて見えない。

ただ、そのような、漠然に憧れつつも、誰かに向ける言葉を探すのならば、保っていたい何かがあって、それを言葉にするなら「品性」というのではないかと思う。『人間以上』にでてきた言葉。

それは服従よりも、むしろ信頼を求めるおきてなのだ。

と、スタージョンは書いていた。
「品性」と「品格」は、字面こそ似ているものの、全く違う。(やっと話が繋がった…)
誇りと自信を与えてくれる「品格」なんて、結局はクールに生きたいと願って思ったことの半分しか口にできなくなってしまうことと似た、自分を定義し限定していく物語なのではないか。
いいわるいではないし、好悪でもない。ただ、少しつまらないなと思う。
強固な理念に動かされるギャツビーの姿に胸をうたれるのは、彼が追い求める人であるからで、拡散していくものをとらえる形を、ただ待ってみることも、どこかでそれに重なる。
限定するための言葉ではなく、その先に繋がるための言葉。
輪郭において、外と相対するとき「品性」を保っていたいと思うのは、それが信頼を求める掟だからだ。「信頼を求める」ということは、つまり言葉を、物語を、交換するということなんじゃないかと、思う。

そんなことを考えていて、昨日も同じこと書いて、でもうまくいかなくて書き直したけれどやはりうまくいかなかった。これは、考えを書いてみてから、それってどういうことなのか考える試みです。