考える練習

理屈で考えていけば、1個のチョコレートバーは永遠になくならないっていえるんだ。
そのために守るべきことはただひとつ/そのチョコレートをいっぺんに/食べてしまわないこと。
まず半分食べる。/残りの半分はとっておく。
次のときは一口かじって/残ってる分の半分だけ食べる。
そしてまた残りをとっておく。
そんなふうに食べるときは/いつでも半分だけ食べていくんだ。
この方法を続けていけば/きみはぜんぶ食べてしまうことは/できないはずだ。
理屈から言えばそうなんだ。
考える練習をしよう (子どものためのライフ・スタイル)

大島弓子さんの「ロングロングケーキ (白泉社文庫)」に出てきたこの文章のことは、ずっと頭の片隅にあって、私が考えているのはいつも、その残る何かのことなんだろうなと思う。
例えば、自分の頭で考えたい、と思う時の、自分とは何か。
名前や性別や職業や、そういう属性を全部食べていって、最後に残る部分が自分なのだとして、その最後のひとかけらの輪郭を知りたいと思う気持ちと、輪郭が定まってしまったら、それも「半分に折って食べてしまう」ことができる属性のひとつになるのだという気持ちは、相反していると思う。
それはつまり、名前を付けてゆく作業と、ラベルの中に含まれる成分をたどっていく作業だ。
自由意志とか好き嫌いとか、そういう自分の判断だと感じていることも、半分にし続けていけば最後に残る何かはあるのだし、それを考えてみたいという好奇心は、いつも、いつかはからっぽになってしまうんじゃないかっていう、漠然とした恐さとともにある。かといって、足場を固めることはいつも何かに属することと近くて、それに逆らおうとすると、「それは属したくないという気持ちでOK?」と出てくるなんかがいて、いやーそういうわけでもなくって、と、さらにチョコレートを齧ってしまうと、だんだんよく見えなくなってくる。その成分表示を見るためには、たぶん知識とか必要で、私にはそういう道具がまだない。圧倒的に足りない。
でもとりあえず「理屈で考えていけば」からっぽにはならないはずなんだ。
水の入ったグラスを見て、あれは水だ、というのも、あれはグラスだ、というのも違って、それは水の入ったグラスなんだ。そして、それを口にすると同時に(客観視できた瞬間に)、語り足りない何かが生まれるような気もしていて、ややこしいことだなぁと思いながら、飽きずにチョコレートを増やしたり減らしたりしている。
そんな1年でした。
来年はもうちょっと道具を手に入れたいものだと思います。ドラクエでもだいぶまで「ぬののふく」だったりする自分なので、がんばってほしい。