「神」を信じることは、その実在や宗教を信じることとは違うのかもしれない

僕は基本的に科学を信用していて、神とか霊魂とかはある種のファンタジーだと思ってます。
しかし信者の人というのは、神や霊魂の実在を信じているのですよね(ここがもう違うのかな?)。宗教によって違いはあるでしょうけど、だいたいは

  1. 人格的な神:人々をいつも見守って(監視して)いて、罪を許したりさばいたりする
  2. 霊魂:肉体の死後も残存して、成仏したり天国に行ったりさまよったりする

の両方または一方の実在が前提となっていて、これを根拠に「よく生きる」ことを説いているんですよね?神サマが見てるから、あるいは、あの世や来世で報われるから、そのためによく生きるべし、と。
http://d.hatena.ne.jp/./good2nd/20070106/1168076907

たぶん、この記事を書く際にイメージされている宗教はキリスト教なのではないかなと思うので、私もそれをイメージしながら書きますが、ひとえにキリスト教といっても様々で、でもその多くはキリストが(歴史的に)実在したことは信じていても「神」の「実在」を信じてはいないんじゃないかと思う。というか、そのような形で人間に捉えられないものとして神をおいている、はずだ。と私は理解している。
例えば、多くの人が、地球に人間が生きていて、科学があって、という状況を日々当たり前のように生きているわけですが、じゃあそれはどこからはじまったのか? ブラックホールがなんたらとか、銀河がとか、そもそも人間の体の仕組みとか、感情とか、あーもーわけわからないけど、これって奇跡なんじゃないの? というバランスで成り立っているものを「神」という存在を置くことで支える/感謝しているのがそもそもの宗教、なんじゃないかと思う。
そしてたぶん、「罪を許したりさばいたり」とか死んだら霊魂になって「天国に行ったり」というのは、長くて短い歴史の中で、人間が超越的な存在としての神を利用し、あみ出した「ルール」なのだと思います。
ただ、それがこれほどまでに長いこと信じられてきたのは、もちろんそこにそれなりの説得力があったからで、例えば日本における山岳信仰などは、土地と共存して生きてきた人の知恵でもあるし、キリスト教における「汝の隣人を愛せ」などというのは、人と人がうまくやっていく上で効果的なルールであり、例えば隣人の迷惑おかまいなしに行動する人に対し、直接手を下すことなく「天罰が下ればいいのに…」という気持ちをうまく消化するものとして作用したんじゃないだろうか。(言い過ぎか?)

ただ、この「ルール」の方が先に立つと、話がややこしくなる。神が死ぬ。肝心なのは、宗教はあくまでも人間が作ったもので、神が作ったものではないということだ。だから、「天国に行ける」から「神を信じる」では順序が違う(はずだと私は思う)。
科学やらが進歩する過程で、いろんなものを疑い、謎を解明しようと進んでいく中で、割り切れない行き止まりの先にあるものが「神」のようなものなんだと思う。いつかはもう少し先まで行けるかもしれない。ただ、いつだって残る可能性がある。そしてそれに支えられて今があるのだということに、単純に感謝する気持ちを私は「信仰」だと考える。そしてもちろん、それは無条件降伏ではないです。私は科学者ではないけれど、解き明かせる部分があるなら見てみたい、とも思っている。

さて、もうひとつ「霊」の方。上の記事を知ったmichiakiさんのエントリを引用してみます。

たとえばさ、ぼくが公園で空き缶を拾ってくるよ? で、あなたに「今からコレがお前の神様だ。毎日20分ほんとうに心からコレにお祈りしなさい。サボると死ぬ」って言っても、んなワケあるかーッ!!でしょう?
http://d.hatena.ne.jp/./michiaki/20070107#1168110039

「なワケあるかーッ!!」ではあるけれど、例えば旅先で拾ってきた石、とか、それこそ空き缶とか? 端から見ればゴミにすぎないモノをすごく大事にするということはあるよねと思う。これの何が違うかといえば、やっぱり他者から押し付けられたルールか否かってことかなと思うんですよね。
というより、亡くなった人を思うときは、霊としての実在よりも実在したということを思う感覚に近く、形として変質したことを意識することはほぼない。箱を開ける前にも後にもいられるような感覚なんだけど。
「神」も「霊」も、信じる対象の《実在》よりも、信じちゃってる気持ちがあるかないかだけなのかなと思います。もちろん、それは信じるから生まれるのではなくて、もっと感覚的なところであると思ってるかどうか、なのかなぁ。その辺ぼんやりだけど。だから、まず先に「信じなさい」があると、フィクションとしてしか届かなかったりするのかなと思った。
ただ、同じくmichiakiさんのエントリにあったこの部分

もしぼくが神サマだったらw「神サマが見てるからいい子にする」人たちは、あまり優先度たかかないかなぁ。

ここはちょっと判断できない、と思う。先に「ルールが先にくるのは順序が逆」と書いたことと矛盾するようだけど、「良い」とされている振る舞いとか、そういうのって、完全に自分の中から湧いて出てくるわけではないような気がするし、「Aさんのことが好きだからAさんにとっていいことをしたい」という気持ちと「Aさんに好かれたいのでAさんにとっていいことをしたい」という気持ちの区別が私にはなかなかつきづらい。そして、その場合どちらが「本当」とかあるのかなって思うんですよね。なのでここはまだ保留。

参考

約一年前に話題になってたこのエントリを読み返したりしました。
http://iwatam-server.dyndns.org/column/47/index.html
http://iwatam-server.dyndns.org/column/50/index.html