言語を使用する際の二つのルール

哲学にまつわる話や、例えば文学作品の批評などで時折出会うのが「それは○○だ/○○ではない」といった言い回しで、その○○には哲学者や作家の名前が入るんだけど、私がわからないのは、そういった発言は、そこに書かれていることや言われたことを理解し、その理解が他者に共有されうると信じて発されるのだろうか? ということだった。例えば「1+2= 」という数式の最後に3と書き込むことと同じように、文章にも正解の読みというのがあるのだろうか、という疑問。
今日、先日書いた文(id:ichinics:20070113:p1)の続きを考えていて、その疑問に、答えが見つかりつつあるような、気がしている。説明できるかはわからないけど。

まず、私は今日、先日の問題を考える続きの手がかりとして飯田隆さんの「ヴィトゲンシュタイン」を読みはじめました。再読なので、キーワード検索のような読み方だけど、それでも新鮮な読書だった。

  • 「だとしたら、インデクスとしての使用をシンボルとして解釈するのは、常に客観である、ということなんだろうか? /その客観には。主体(思いや考えの主として)を客観視するということも含まれているとして、そう考えてみると、やはり「自由意志」というのはなくて、ある、と解釈する客体だけがあるということ?」

たった2日前だというのに、何をいってるのやら、な疑問文だけれども、もういちど整理してみると、
まず、言語という記号は「記号どうしの結びつき」によって意味を獲得するとする。「結びつき」とは、言語が使用される際の法則である、と思われる。では言語を使用する際に「法則を用いる」とはどういうことだろうか? ■今わたしが考えている限りでは、それは「1+2= 」の最後の空白を3と埋めるようなことではないかと思う。それは経験のようなものに支えられた、もしくは学習した振る舞いであるといえるだろう。■しかしその時、「振る舞いに従うこと」と「その振る舞いの背景に思いや考えがあると捉える」するのは別の側面にあるのではないか?
というように疑問が流れていった。そして、まずは「振る舞い/法則に従うこと」とはどういうことか、と考えてみた。そこから、どうやら言語を使用する際の法則には、2種類(仮に論理と物語、とする)あるんじゃないか、と思えてきた。

  • これを、私の「考えたり感じたりしていること」における重力が「論理」という「結びつき(の法則)」であり、〈記号どうしの結びつき〉によって生まれる「意味」に影響する引力が「物語」である、ととらえることはできないだろうか?

この疑問については、以下の部分で書かれていることがわかりやすかったです。というかこの文の手助けで疑問が言葉にできた。

いまウィトゲンシュタインの見解を認めて、言葉の意味を理解していることが、その言葉を正しく使えることであるとしよう。しかし、その「正しく使える」ということは偶然の産物であってはならないだろうし、また、自分の意図と無関係に生じる消化活動のようなものでもありえないだろう。つまり、言語を理解しているひとの言語的振る舞いは、単なる規則性を示すものであってはならず、そのひとが意図的に規則に従うことによって可能となる振る舞いでなくてはならない。よって、あるひとがある言葉を理解していると言えるためには、その言葉をどう使用すべきかという規則を知って、それに従っているのでなくてはならない。ここまではウィトゲンシュタインも認めると思われる。ただ、問題は、「規則を知っていて、それに従う」ということがどういうことかである。そして、ここでも「規則を知っていて、それに従う」ということを心の状態に帰着させようとする強い誘惑にたいして戦うことが、ウィトゲンシュタインの主要な仕事となる。/p240

言語という記号が、記号同士の結びつきによって「意味」を獲得するということ。その獲得とは言語の意味、というよりは「意義」というほうがしっくりくるように思う。安易な言い換えは危険だと思うけど、私はそのようにとらえた。もし、言語が「何を指し示しているか」の「何」の部分が意味である、とするならば、それはインデクスとして使用される場合だろうし、記号と対象の「結びついている状態」が意味である、と言えるだろう。
「規則を知っていて、それに従う」ということを心の状態に帰着させず、ただ「結びつく」という規則によって意味は獲得される、とする。ただ、ここで「心の状態」とされたものがないわけではないのは私も知っているし、それが言語が使用されるにあたって、影響を及ぼすことがあるのもまた事実だ。ただ、それは必然ではないヴィトゲンシュタイン*1の言っているのは、そういうことなんじゃないかと思う。
例えば「にんじん」という言葉に最も近くマッピングされている言葉が「すき」である人もいれば「きらい」である人もいるし「馬」である人もいる、というように。
つまり、言語という記号を「結びつかせる」者としての「私」は、もうひとつの法則として存在する。これを先の疑問の言葉を使って整理すると、

  • 言語を使用する際には規則がある(論理)
  • そしてその規則の実践は、言語を使用する者の規則に基づく(物語)

と言えるんじゃないか? じゃないかっていうかそんな気がする。
ただ、後者の法則は、言語の外にある。つまり言語を使って説明することができない。常に「それ以外」のものだ。

つまり、言語と世界との対応を可能とする「私」はいつまでたってもそのどちらからもはみだした存在であり続けるのである。したがって、「私」は世界の一部ではありえず、「私」は言語によって名指されうるものではない。
よって、次のように言われる。
 五・六三二 主体は世界には属さない。それは世界の限界である。/p108

ここで言われている「私」とは、最初に書いた疑問、

  • しかしその時、「振る舞いに従うこと」と「その振る舞いの背景に思いや考えがあると捉える」するのは別の側面にあるのではないか?

ここで「振る舞いの背景」として思い描いたもの、だ、と言えるかもしれない。しかし、それは背景であるというより、『意味』を見出すものとして、後からついてくるもの、なのではないだろうか。
自由意志云々の話をだしたのはこの「後から」にひっかかったからだ。

  • 言語を使用する際には規則(A)がある
  • (A)の実践は、言語を使用する者の規則(B)に基づく
  • ただし(B)は、(A)の実践によって形作られる

というのがいまのところの考えだと思う。なんかすごく当たり前のようでややこしいですが、ポイントは、私には(B)という「私の言語」しか使えないということだ。つまり、私は「私の言語」を通して、「私の世界」に触れる。ここで私は、「私の言語」を「主体」、「私の世界」を「自我」と言い換えることができると思っている。
意味はあるままにあるものだ。そして私は「私の言語」を通し「私の世界」に触れることで、それを捉え、理解する。意味とは(A)の実践である。ならば、それは常に「あってしまってから」のことなのではないかと思える。
では、その「ある」とは何なのか。

あー、なんかまた混乱してきちゃったな。なんだこの迷宮は。日をおいて考えた方がよさそう(書きながら考えるからいけない)。
ところで最初の疑問。「文章には正解の読みがあるのか」という疑問についてだけれど、たぶん、それはあるのだろう。「1+2= 」に3を記入したくなるのと同じような形で、複数の世界でその結び付け方が規則として支持されているならば、あるといってよいのではないか。
ただ、なぜそこに3を記入したのか、という内的な要因が必ずしも一致している必要はないし、例えば4と記入する行為に意味を見いだすことも、できるのだと思う。前者は「足し算」にマッピングされ、後者は「計算ミス」にマッピングされるというように。それはどちらも「私の正解」でしかないけれど(そしてそれを「正解の読みはない」と言うこともできるだろう/混乱してきた)。
ただし「求められる正解」を導きだすことが言語を使用できるということだとすると、それが求められているということを判断するのは何か、というところが問題になってくる。つまりは「私の言語」もまた、言語という大きな規則に従っているということなのだろう。たぶん。

ウィトゲンシュタイン (「現代思想の冒険者たち」Select)

ウィトゲンシュタイン (「現代思想の冒険者たち」Select)

ちなみに今日引用した文は全てこの本からのものです。

*1:ウィなのかヴィなのか迷うけどヴィのがしっくりくるな