よしながふみと志村貴子

よしながふみの「愛すべき娘たち」第3話についての「やさぐれ日記暫定版」さんの文章を(昨年のものですが)、コメント欄の追記(こちらも興味深いです)があったおかげで改めて読みかえしました。

けれど、オレがどうしても若林の非の打ち所のない造型に納得がいかないのは、彼女が「人を愛すること」の矛盾を受け止めず、宗教にその帰着を求めた点である。別に宗教がイカンと言っているのではない。しかし、この結末には、そもそも「人を愛すること」じたいが、見方を変えればれっきとした一つの暴力であり、同時に不特定多数の「特別に愛されなかった誰か」を生み出す酷薄なエゴである、という認識を背負おうとしていないように感じられ、それはよしながの作風が内にも外にも潔癖さを描こうとするが故の限界点に思えてしまうのだ。作中では対照的に描かれる生き方だけど、若林が選んだシスターという道も、第4話に登場する牧村という女性がたどる転落と相似であるように、オレには思える。
http://d.hatena.ne.jp/./headofgarcia/20060918

この物語については、昨年もスタジオボイスでのインタビュー関連で考えたことがあります(id:ichinics:20060811:p1)。その時は、インタビュアーの「僕は単純に、自分がこのまま幸せになってしまうのが突然怖くなったんだろうという読みをしていたんです」という発言に違和を感じたのだった。

愛すべき娘たち (Jets comics)

愛すべき娘たち (Jets comics)

もちろんどんな「読み」も自由だし受け取り方に正解はない、というのを最初に書いておきますが、
私にとってあの物語は、自身のエゴに悩まされる女性のものではない。むしろ、人を、人がするようには「愛せない」ということに気付いてしまった女性に救いの手を差し伸べるものだったように思うし、インタビューで語られていたことも、そのように読んだ。
4話に登場する牧村についても、あれは確かに転落と描かれているけれど、どちらの作品からも感じるのは「もう戦わなくていい」という赦しに思えます。そして逃げることを選べない者にもきちんと視線を送るバランスのよさ。よしながふみの作品は、常にマイノリティに寄り添った物語であるがゆえに、潔癖だと感じる。というのは今日「少女漫画的日常」さんで引用されていた「フリースタイル」のインタビューを読んで思ったので孫引きになりますが引用。

「頑張ればなんとかできると、いくら少年漫画を読んでも思えない人たちのために、その人たちがどうやって生きていくかってことを、それは恋愛だったり、っていう、それぞれの形で答えを少女漫画は提示している。」
http://d.hatena.ne.jp/./nogamin/20070121/1169349190

ただ、マイノリティであることへの罪悪感というか、赦されることを望むことは、それを悪とみなすことなのか、とか、そもそもマイノリティなのか? とかそういうところに引っかかりがあって、確かにその潔癖さを物足りないと感じている自分もいる。
「女」というカテゴリと戦うことだけが少女漫画のテーマではないし(もちろん/そしてそういう作品も面白いんだけど)、自意識を意識するようなループ、マイノリティであることへの「負い目」みたいなものを軽くこえているものなんじゃないかって予感を、私は志村貴子さんの「青い花」に感じている。女の子同士の恋愛を描きながらも、その背徳感のようなものにはほとんどスポットをあてず、「好きになること」の気持ち良さが描かれる。そしてそれが自己憐憫やら自己愛やらであってもビクともしない衝動に、魅力を感じてしまうのだ。
そして逆に、男であることの負い目とか? 「男」というカテゴリと戦うような漫画はあるのかって気にしちゃうところが、まだカテゴリに捕われてるなと思ってしまうのですが。「ハーツ&マインズ」などはそれに近かった気がします。でもあんまり思い付かないので、あったら読みたい。

参考

青い花」の感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070112/p1
「ぼくは、おんなのこ」の感想 → http://d.hatena.ne.jp/ichinics/20070111/p1