「無性になる」物語/「愛すべき娘たち」3、4話について

先日troubleさんにトラックバックしていただいた「月と太陽のおもいで。 − イノセンスへの憧憬/「ぼくがおんなのこになりたいわけ」について」という文章を読んで、いろいろ考えていたことを書いてみようかと思います。
まず、1年ちょっと(?)くらいtroubleさんのブログを読ませていただいてたので、今回の文章は、なんだかとても、ぐっとくるところがありました。なんてこんなふうに思うのはおこがましいのかもしれないけれど、ともかくtroubleさんの書かれていた、

むしろ、捉え方としては、「無性になりたい」という捉え方の方がよいのかもしれません。

という一言には(方向性は違うかもしれないけれど)共感するところがありました。
青い花」「放浪息子」と続けて読んで、苦手なはずなのに「性」ということについてひとしきり考えてみて思ったのは、私もやっぱり自分に与えられた「性」に、積極的にではないにしろ、抵抗したいと思っているのだということだった。でもそれは女性を否定したいわけでも男性になりたいわけでもなくて、実際、文化としては男性的なものも女性的なものも好きだし楽しめるんだけど……というもやもやしたところを纏めると、たぶん「無性になりたい」に近いのだと思います。
私の場合、それを端的にいえば、

  • 性別とは、何もつきあう異性の対称としてあるわけではないと思っている。(id:ichinics:20070128:p1)

ということです。ただ、これもまた、恋愛を否定したいわけではないんだよね…と考えていたら、また「愛すべき娘たち」に戻ってきてしまった。

「…それにしても 何であんたが いまだに 嫁に行けてないのかが あたし達には 分からないわ」
「あんたはホントに いつ見てもキレーよねぇ しかもユッコのよーに キッツイ美人じゃなくて 清楚な感じでさ」
愛すべき娘たち (Jets comics)」/p79

ここであんた、と呼ばれている主人公*1の爽子は、マルクス主義者の祖父に「全ての人に分け隔てなく接しなさい」と教えられて育ち、やがて、恋をするということは人を分け隔てることである、と気付いてしまう。そして爽子がラストに出家を選択することについて、物議をかもしたりしていた……かはわからないけど、ともかく多くの人にとって衝撃的なラストであったと思う。
でも、もしかしたら、この物語においてマルクス主義云々というのは物語をわかりやすくするための小道具にすぎなかったのかもしれない、と思う。
この第3、4話には4人のお見合い相手が出てくる。そしてそのうちの一人の「やっぱ女の人は爽子さんみたく自然体で女らしい人がいいですよぉ/p91」という台詞に現れているように、選ばれる側/選ぶ側というパワーバランスは、長い間、女性を選ばれる側としてとらえられていたんじゃないかなと思います。しかし、ここでのお見合い相手の描かれ方は、選ばれる側として陳列されている。
そして、爽子は、自分がお見合い相手を「選んでいる」ことに気付いてしまったんじゃないだろうか。そして、それに甘んじるということは、自分もまた「分け隔てられる」ということを赦してしまうことでもある。つまり、「分け隔てる」ことを否定するために「分け隔てる」のでは、結局「選ぶ/選ばれる」という場に参加してしまうことになる。
だからきっと、爽子は「私は孫の中でお前が一番可愛いよ/p122」という祖父の言葉に、失望したのだと思う。そして「自分が間違っていたことを認められる人間は偉い/p118」という不破の言葉に惹かれつつも苦しい、と感じたのではないか。

「ちょうどその頃、友達から “税金も払ってて、犯罪もしてなくて、なんにも世の中に対してやましいことはないはずなのに、恋愛をしたことがないっていうこの1点だけで、どうしてこんなに責められてる感じがしなきゃいけないのか” って言われたんです。」(id:ichinics:20060811:p1)

この友達の台詞に対するよしながさんの回答が、この物語だったのだと思います。そして、選ぶことも選ばれることもしたくないと考えた(であろう)爽子の、出家という選択は、やはり防御だったのだと思う。
個人的には、恋愛というものは、ここに挙げたような「属性を選択する」こと以外に、何かがあるはずなんだと思う。もしくはあってほしいと思っている。だから、「分け隔てる/分け隔てられる」ということそのものを否定してしまう描き方を救いとして提示することには違和感もあるのだけど。
ただ、この爽子を「美しく、清楚で、しかも仕事もできる」というわかりやすいカテゴリで描かなければ伝わらないというのは、よしながさんのやさしさなのか、それとも未だに越えられない壁であるだけなのか、そういう歯痒さを飲み込んで、これは、自分に与えられた(異性の対称としてある)性から降りることで「無性になる」物語のひとつととして読めるのではないかと思います。

もちろん、現実には爽子のように自分を定義しきってしまうことは難しいだろうと思う。だからこそ、よしながさんの友人のように、社会にあって「責められている」と感じてしまう人もいるのだろう。(それから、ルサンチマン的な感情の発露として、似たような防御法を選択しようと考える人もいるだろうなと思いますが、それは願っている方向がたぶん違うので、また別の話になると思う)
私自身は、それほど社会における役割みたいなものに誠実であろうという意識がないので、たいして悩んだりはしないんだけど、でも、それを赦してくれる社会であってほしいなと(図々しくも)思っていたりする。
主題は違うけれど、私の考える理想のかたちのひとつがこちらの文章でした。

個々の人間がもっともその個人が望ましいように生きることができる社会態勢を整備する、という観点からは少子化は問題にならない。個々の立場からは子供を産むことが難しくなるような環境と人生の選択肢が判断の要素なのであって、少子化だから産む・産まないということではないのである。「私が産むこと」は「隣人が産むこと」や「友人が産むこと」とは置換不可能である。したがって「産む人間」にとって少子化は問題の対象にならない。極端なことをいえば社会がどうであれ、私は産む、のだから。
「kom's log − 極私的選択」

*1:第3、4話の主人公