めぐりあう時間たち/マイケル・カニンガム

ヴァージニア・ウルフの代表作『ダロウェイ夫人』をモチーフに、物語が繋ぐ三人の女性 ―― ヴァージニア・ウルフその人と、ダロウェイ夫人と同じ名前を持つクラリッサ、それからダロウェイ夫人を読むローラ ―― の異なる時代の、ある1日を描いた作品。

めぐりあう時間たち―三人のダロウェイ夫人

めぐりあう時間たち―三人のダロウェイ夫人

小説家であるヴァージニアが行う『ダロウェイ夫人』についての自問自答は、とても興味深い。それは彼女の内面と強く堅く結びついていて、まるで祈りのようだと思う。(そして、このように自分を物語の中に置こうとするのは、意図的であれ無意識であれ、誰もが試みることなのではないか、と思う)しかし結ばれた両の手は、いつか開かれてしまう。読者の多くはそのことを知っているし、この物語も、ヴァージニア・ウルフの最期から描かれている。

クラリッサ・ダロウェイは、と彼女は考える、表面上まったく取るに足りないと思えることで自殺するだろう。彼女のパーティは失敗に終わる、それとも、彼女の夫は彼女が自分自身と家庭について払ったいくばくかの努力をまたしても認めようとしないということになるだろうか。秘訣はクラリッサの些細な、しかしきわめて切実な絶望がいかに重大であるかを完璧に描き出すこと、彼女は家庭で味わう挫折によって、将軍にとっての敗戦と同じくらい心が打ちのめされてしまうのだと読者を十分に納得させること。/p105

そしてミセス・ブラウン。本を読み、良き妻、良き母であろうとする女性。彼女は『ダロウェイ夫人』を読んでいて、そして徐々に、物語に、もしくはヴァージニアの自問自答に、引きずられていく、ような気がする。彼女の感じやすさ、神経質さ、小女性、云々は、読んでいて切なくなる(それは悲しい、とは少し違う)。生きにくさ、ということを考える。

それでも分かったことが嬉しい(というのも、なぜかしら、不意に分かったのだ)、生きるのを止めることは可能なのだと。あらゆる選択の幅に正面から向かい合い、自分に与えられた選択権について恐れることなく誠実に考えてみると、心が慰められる。想像するのは、処女性を保ちながら、精神のバランスを欠き、生活と芸術の耐えがたい要求に打ち負かされたヴァージニア・ウルフ。彼女がポケットの石を詰めて、川に足を踏み入れる姿を思い描く。ローラはお腹をさすり続ける。それは簡単なことなのだろう、と彼女は思う、ホテルにチェックインするのと同じくらいに、それくらい簡単なこと。/p187

それは例えば、いつか王子様が、などという少女の夢や憧れ、自分を物語にしてしまうことに、似ているように感じる。しかし、そこにあるのはやはり「些細な、しかしきわめて切実な絶望」なのだろう。
このローラに対するほのかな共感と、そしてその共感から距離をおきたいと思う反発のようなものは、「バナナブレッドのプディング」*1を読んだときの感じに似ている、し、実際に根元はつながっているのだろうと思う。しかし「バナナブレッドのプディング」の結末に描かれていた、生まれてくる子供に対して語られる言葉が、ふわふわと甘く感じられるのに対して(しかしそれはとても魅力的なのだけど)、この物語の結末となるクラリッサの章は、物語でありながら、現実の手触りがあり、力強い。
もちろんどちらが良いということではないし、いまこうして比べて考えること自体が不毛なことなのかもしれないけれど、そこにある大きな違いは、物語のテーマのひとつに「老いること」が語られているかどうかだと思う。そして、もしかしたら私は、大島弓子を卒業してしまったのかもなぁということを、この作品を読みながら考えていた。もちろん今も大好きな漫画であることにかわりはないけれど、でも、ミセス・ブラウンがそうしたように、その作品の中に入ることで「自分を保持」することはもうできないし、しようとも思わないだろうなと思う。

きょうは明日の前日だから……だからこわくてしかたないんですわ
「バナナブレッドのプディング」

「でもやっぱり時間はやってくるだろう。一時間、また一時間と。それをなんとかやり過ごす。するとなんてことだ、次の時間がやってくるじゃないか。吐き気がしそうだよ」p241

このふたつの台詞の向いている方向、解消のされかたの対称のことを考える。そして、このような言葉を自分の外に与えられることで、クラリッサは、ありふれた人間として生きることになるのだけれど、それはもしかしたら、偶然によるものなのかもしれない、と思う。
その切実な絶望は、いつまでもそこにある。けれどちょっとした瞬間、例えば「思いもかけず、あらゆる予想を裏切って、わたしたちの人生がはじけるように開かれ、それまで心に思い描いていたことすべてをわたしたちに与えてくれると思われる一時間/p270」が、また彼女を救うのだと思う。その繰り返し。いつも何かのしっぽを、見失わないように。
最後まで読んでしまってやっと、記憶の彼方にあった『ダロウェイ夫人』の結末を、なんとなく思い出すことができた。

そして、私はこの小説がとても気に入った。読みながら、たぶん二年近く、積んだままにしていたのを悔やんでいたのだけど、読み終えてみると、今読んでよかったのかもなと思った。いつもそういうこと思って、納得してる気がする。