「言葉」のお店

緩い言葉と、タイトな言葉があります、という漠然とした感覚がある。
「緩い言葉」とは、例えば「ゆるい」という言葉のもつイメージが、どのように受け取られるかある程度予測できて、なあなあで、それほどの齟齬も起きないだろうと感じているような状態のことだ。そして「タイトな言葉」とは、専門用語や記号、ルールのようなもののこと。それを知っている人にとっては、ラベルとして役立つ言葉であるけれど、「+」という記号の意味を知らない人にとって、それはただの交差した線であり、交差した繊以上の意味を持てなかったりする。
なんてことを考えていたところに出くわした、troubleさんのエントリに引用されていた穂村弘さんの言葉が新鮮だった。以下孫引きですが。

「言葉」のお店の「常連さん」にならないとは、何度通っても「一見さん」であり続けること、「言葉」を既知の道具とみなすことなく、そのなかに未知の怖れと眩しさを感受し続けること。

そしてtroubleさんはこの文についてこう書かれている。

その時にきっと大事になるのは、「あら、これは他人の言葉だね」と思いながら、「よく分かんないなあ、何言ってるのか」と、「自分の口から出た言葉」に対して思っておくことなのだろう。
http://d.hatena.ne.jp/./trouble/20070319#p1

一度身に付けた言葉は、それを道具として使いこなす中で、いつしか手になじみ、まるで自分の一部であるかのように、意識されなくなっていく。
私のイメージでは「ゆるい言葉」は多くの人にとっての生活必需品であり、「タイトな言葉」は、特定の人のための近道のようなもの…、という分け方をなんとなくしていんだけど、しかしどちらの言葉も、私の一部ではなく、あくまでも外側とつながるための道具なんだ。それはいつも、はじめて使われる。
そして、そのことに気づき続けるということが「一見さん」であり続けるということなのだと思う。
ひとつひとつの語に込められた、私の与り知らぬ意味、歴史、地図のようなものを思うとき、私の言葉は「他人の言葉」になるのかもしれない。
頭が混乱すると、もっとタイトな言葉を身に付けたい、と思ったりするけれど、その言葉にたどり着くまでの道のりを、何度も繰り返すということを忘れないでいたいなと思った。10年経った、といったからって10年は一瞬に集約されるのではなくて、そのとき見えない、あれやこれやそれがうようよとただよっている感じ。1と2の間にある距離みたいなもの。空中に描いた○の中にあるもの。私がこの言葉を覚えるまでのこと。
もうちょっと、考えたい。