私が「あなた」を好きな理由

よく「人は外見じゃない」なんて言ったりするけれど、それが真実であるなら、外見以外で、人をどう識別するのだろうか。
映画「絶対の愛」を見て感じたのは、人は見た目/表層によってしか、相手を識別できないのかもしれないということだ。ほんともう絶望的なまでに手がかりなんてない。映画の中には、「記憶」や「手を繋いだ感じ」で判断しようとする場面が出てくるけれど、それだって、相手の協力がなければ、例えば相手が識別されたくないと思っている場合なんかには、不可能になってしまう。ましてや…、という場面が映画のラストに出てくるのだけど、そこはぜひ映画を見てみてほしいです。ともかく。
顔や姿形は分かりやすい「外見」だけれど、表に現れる人柄や癖、マナーや言葉遣い、すべて「外見」に過ぎないのだと思う。そして、表層はすべて、失う可能性のあるもので、永遠じゃない。どんなにコミュニケーションを重ねても、言葉だって、それは共通のルールではあれど、それぞれの理解は異なっているものだし、それを完全に重ねあわせて理解することなんてできない。例えば「彼女の考え方が好きだ」なんていうのも、それは彼女をほかの人と、区別できているからこそのもので、識別できる他の手がかりがなくなってしまえば(それは実際、移ろいやすいものだ)、見つけることはほとんど不可能なんじゃないか? 私には自信がない。「100パーセントの女の子」だって、一度離れてしまったら、もう見つけられないんだきっと。
でも、それは、そのときあった気持ちを嘘にするものではない。識別することが不可能であっても、人は人を区別するし、そこには何かがあるのだと思う。
属性のひとつひとつは他と区別できないものであったとしても、その奇跡的な配合、とか、その瞬間にただ「会えた」ということとか。本当に頼りないようだけど、確実な「何か」が、あるんだと思う。

ぼくは人を好きになるとき、まず見た目や性格などの「属性」で好きになる。「中の人」が誰かということは関係ない。しかし、そこから付き合っていくのなら、「ただ、会えたこと」も、好きな理由のひとつに付け加えていきたい。そう思っているのです。
「で、みちアキはどうするの?」 − 無色透明な魂


それでは、区別されたい、愛されたい、という欲望についてはどうだろう。
「絶対の愛」では、無限地獄の輪は閉じている。昨日感想を書いた、「洗礼」では、その輪は他者によって断ち切られ、その後どうなったのかはわからない。しかし「ヘルタースケルター」には、その後の可能性が示されている。
ぼんやりと彼女たちのことを考える。そして、私は何か、ということの由来を表層に求めることこそが、その移ろいやすさゆえに、人を苦しめるのかもしれないと思った。
映画の中に、第三者の女性が「仮面」をつける場面がある。「どんな気分?」と聞かれ、「いい気分です」と答えるのが、非常に印象的だった。
その「気持ち良さ」とはつまり、区別されたいという欲望から逃れることではないだろうか。見られるということ、評価されることは、区別され、切り捨てられる方に入れられることの繰り返しだ。そして、仮面をつけることは、自分以外になることで、見られるというストレスから解放されることでもある。それと同時に、それは自分として存在できない、ということでもある。たぶん。
しかし、「りりこ」が選択したのは、もうひとつの物語だ。それがどんな物語かは、具体的に描かれていないけれど、想像することはできるような気がする。