理由とルールの間

遅い夕食を食べながら、延々と流れる映像に見入っていた。私の後ろで、わけがわからないものはこわい、と言う母の言葉に軽く頷きながらも、でもどこか理解できない、とは言い切れないような気がしている。
チャンスは無数にあったはずだ、と彼は言う。でもそれはきっと場面のとらえ方の違いなのだろうとも思う。彼にとって意味のある出来事と、周囲にとっては意味もない風景としての出来事が重なっていたのではないか。そして、その温度差が堪え難いところへ振れてしまうことで、電球が灯る。
昨日、「13」という映画について、集団ロシアンルーレットに参加した主人公が、後頭部に銃口を押し当てられながらも「電球が点灯したら撃つ」というルールにしたがって電球を見守るのは不思議だ、という感想を書いた。
しかし、そのように、電球を見守りながら日々を過ごしている人も、いるのかもしれないなと思う。それが点灯したら、撃つということだけが決まっていて、それが「なぜ」そこに繋がらなければならないのかをうたがわない。そもそもその電球が点灯したときのルールを知っているのは自分だけなのだから、それを守らなくてもいいのに、と私は思うけれど、それを破るという選択肢自体が見えない、ということは、ありうる。
この程度なら大丈夫、とルールを推し量り逸脱することができるのはルールとの間に距離があるからで、多くの人は、多くの疑ってはならない前提を、無意識に守っているのかもしれない。
映画の中では、勝ち残れば金が手に入るということだったけれど、そもそも死んでしまえば金など意味がないということと同じように、例えばそれが本人にとっての大義であっても、それを受け取るものがいなければ「意味」はないはずだ。それなのに、なぜそれは実行されるのか。
…… などと、自分に理解できる範囲の言葉で思い描いてみても、「なぜ」そのルールが作り出されたのかという部分は見えない。そして、その見えなさは、なにも特別なことではなく、そこに可能性のようなものがあるような気もするのだけど。

しかし、私の知っている今ここに「気違い=他者」が現実にいるのなら、彼らをそう呼ばずして誰をそう呼べばよいのか。そうして、この社会がそこに貴重な時間やお金を費やすのに、「あいつらとどう分かりあうか」ではなく「あいつらをどう遠ざけるか」を優先せよという意見に、どう反論すればよいのか。
「東京猫の散歩と昼寝 - “So it goes”―不適用例