世界を肯定する

「世界を肯定する哲学」がとても面白いです。もうちょっとで読み終わりそうなんだけど、思ったことを少し整理してみる。
まずこの本で繰り返し書かれていることは、言葉と思考/意識の間にあるものについて、だと思う。そこに近付こうとして押し返され、また近付く。

書くことも現在の私たちのように思考することも、テクノロジーであるかぎり後天的に習得したものではあるけれど、人が母国語を操るのとほぼ同程度に自由に操っている。しかしこれはむしろ「操られている」と言った方がいいような状態であって、人はついつい操ってしまっていて、操らないことの方が難しい。
(略)
書くことによって生まれてしまった思考によって、本来充足していたはずの記憶は、いわば神経症的に浸食されてしまうことになった。しかし当然のことながら、現在の人間はそこから自然な状態に戻ることはできない。/p74

まずは、書く、ということが、例えば歩くこと箸を使うこと、から進んで、挨拶するときに頭を下げてしまうことや女性ならトイレの前で赤い色の方に歩いていってしまうこと、頭で文字を思い浮かべることもなくしゃべるようにキーボードを叩くこと、のように習慣化されることで「意識されなくなっている」、ということに気づいて、少しおどろく。やはり私は意志するよりまえに、言葉を選んでいる(ことが多い)。
でも、それは決して「そのもの」ではない。無意識にでも、言葉は選ばれ、選ばれたそばから「読まれる」。書くということ、もしくは人に物語るということは、そのように記憶を上書きしてしまう。そして上書きされた記憶はもとのぼんやりした状態には戻らない。
これはふだん、日記を書いているときにもよく思うことなのだけど、記憶をただ情景のままとっておくこと、というのは意外と難しくて、「それ」を思い出そうとするだけで、あそこ、白い建物があって、あの白い建物は病院に似ていて、だからそれは彼が入院していたときのことで…というふうに芋づる式に思考は進んでしまう。漠然とした「印象」は、そのときすでに思考後のラベルが貼られた「記憶」になってしまう。
言葉は決して映像に追い付かないし、感情の全てをあらわすこともできない。好きなものを選ぶことはできても、好きな理由を明確に示すことはできない(たぶん)し、何を好きになるかはそもそも選択すらしていない(それはたぶん習慣に近いのではないか)。
ただ、それを語ろうとするときに、見ているもの、その言葉でとらえきれなかった部分にこそ、「何か」の感触がある。
何か。

「生きている」ことは自明ゆえに語ることができない。
その自明性を突き崩さないかぎり「死」を語ることができない。
自明性は突き崩せないので、「死」は語れない。/p130

その何かは、例えば自分が、世界が、「ある」ということなのかもしれない。この本では、その「あるの自明性」を、「肯定感」と書いているんだと、思う。

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)