世界を肯定する哲学/保坂和志

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

世界を肯定する哲学 (ちくま新書)

…私は、ただ私であるということだけで生きていたい。痴呆老人にでもなったら、望むと望まないとに拘らず、ただ<私>であるだけの存在になるのだ。私は、これまでの人生という時間が私の中に<蓄積>されているというよりもむしろ、それぞれの<場>に居合わせ、そこでそのつど<保坂和志>らしきものが結ばれてきた、という風に感じることの方が強い。/p187

この本を最初に読みはじめたのはずいぶんまえ、たぶん半年以上前で、なぜこんなに長いこととめていたのかというと、その頃ちょうど保坂さんのトークショウにいったからなのだった。単に、保坂さんの話しているところを見てみたいという気持ちで行ったのだけど、ほんの一言交わした言葉が強く印象に残ってしまって、文章に集中できなくなってしまっていた。それはちょっと不思議な感じだった。かといってそれは感情ともちがうのだけど、保坂さんの文章はとくに文を文のまま、他者を読むというよりは自分と読むというやり方を求めるもののような気がしていて、特にこの「世界を肯定する哲学」は、その断片的な印象(しかも更新される可能性はなさそうな)が薄れてからのほうが、読むのに適している本だろうなと思ったのだった。
そしてこの本を最後まで読み、「カンバセイション・ピース」で書こうとしていたのもそれなんだな、という結論(のようなもの)まで導かれて、やっと、あの印象というものが、何か意味のあることのような気がしている。まだうまく言葉にできないけれど、それはつまり上に引用した部分に近いこと。
それと同時に、先日書いた感想は、おおきく読み間違えているのでは、と感じる部分もたくさんあって、この本を書いた人が質問できる相手でないことがとても残念だと思った。でもまあいいや。考えるし、うれしい読書でした。