パラダイス・ナウ

ichinics2007-05-17
監督:ハニ・アブ・アサド
イスラエル軍の占領下にある町、ナブルスを舞台に描かれる2人の青年の物語。
彼らは貧しい。四方を囲まれた息のつまるような町に生まれ、その町から出てゆけないことを知っている。
ある日、彼らは自爆攻撃の「殉教者」に選ばれる。たんたんと準備がすすめられ、胴体に爆弾が、自分では外すことができないという説明とともに、巻かれる。その光景は「死」を前にそれぞれが目をそらしているかのようだ。
死んだら天使が迎えにくる。天国にゆける、英雄になれる。
そんなことは「頭の中」にしかないとわかっていても、囲われた町の中にいるかれらにとっては、「ここ」から出ること、「いま」をかえることがたいせつなのだ。きっと。でもそれが、生よりすばらしいものではないということも(バチあたりだと思いながらも)わかっている。それでもハーレドは「地獄で生きるより頭の中の天国のほうがマシだ」という。

彼らが加害者と被害者の役を同時に演じるなら
僕らもそうするしかない
被害者であって
殺人者となるしか…

この台詞にもあらわれているように、映画の視線はパレスチナ側にありながらも、同時にイスラエルのひとびとひとりひとりにも物語があることをきちんとしめしている。
ラスト、テルアビブの町に着き車を降りた場面で、私はイスラエルの豊かさに驚いていた。高層ビルがたちならび、ビーチで遊ぶ人々がいる。殉教者となるしかなかったハーレドたちには、そこに立ってみてもなお手の届かない遠い世界だった。

この映画を見る前に、私が思い描いていた「自爆テロに向かう心境」は、むしろ宗教的高揚感のようなものだった。その方向から想像しようとしていた。もちろん、この国に様々な人がいるように、パレスチナにも様々な人がいて、その中の戦う人の中にも、さまざまな人がいる。ということは頭では理解していたつもりだったけど、様々であるにもかかわらず、戦うことを選択してしまう/選択せざるをえない、ということについて、傾向をもった答えを想像しようとしていた。
けど、そうじゃないんだな。
事件を解決したり防ぐ目的として、傾向を見出すことには利点があるだろう。しかし、そのことによって、自分を「それ以外」において安心して、おしまいにするのでは何もだと思う。いくら属性を組み合わせてもそこから人は生まれない。相手を知るには、相手について考えるのではなく相手が何を考えているのかを知ろうとするべきで、関わってみればきっと、共有する部分もあるはずだ。
テルアビブの「豊かさ」を見渡す場面で、私は確かに「うらやましい」と思った。ハーレドではなく、私が。
人を理解するというのはすごく難しいことだけど、共感することはできる。相手は自分と同じ「ひとり」だというただそれだけをこの映画はいっていたと思う。相手にも生活があるとか子供がいるとか笑う食べるとかそんな当たり前のことだけじゃなく、その感情を身近に感じることはできて、だからこそわからなくなる。ラスト、自分が彼だったら、どのようにふるまえばいいのか、わからないままでいる。

アップリンクはちょっと遠いけど、DVDとかでるかわからないし、とおもって見にいった。いってよかったです。もっとゆっくり感想かきたいんだけど、でももうすぐ終わっちゃうから、取り急ぎ。
公式HP → http://www.uplink.co.jp/paradisenow/index.php