とりあえずここはいい気持ち

ちょっと日差しが強くなると、すぐカルピスが飲みたくなるわたしは、改札をくぐり階段をおり左手に曲がってキオスクのガラス戸を、それはガラスのようでプラスチックのような質感なのだが、戸をあけて、迷わずカルピスウォーターを手に取る。150円はらう。どうも、という言葉はありがとうと言うより相手に負うところがなくて(べ、別に、あんたに礼言われるためにやったんじゃないんだからねっ!、と言われたら私は素直にへこんでしまう)楽だとか思う、そんな消極的な気持ちでも、知らない人と声をかわすのは、やっぱりすこしうれしい。
「どうもです」
「どうもねっ!」
会釈をなびかせながら、各駅停車に乗り込む。ひんやりしたそれをこめかみにあてがいながら、ボトルネックについていたおまけに気づき、見てみるとそれは、あの「どこでもいっしょ」…だったかな、ゲームにでてくる猫の人形で、私は思わずカルピスを鞄にしまう。
…もう一度出して,見る。
この猫と過ごした日々は、たぶんもう五年くらい前のことだ。ちょうどそのころブロークン諸々で落ち込んでいた私は、猫を飼うことで気がまぎれるんじゃないかと思って買い、実際かなり紛れていたはずだった。なにより、ポケットステーションに入れて、つれて歩ける、というのが画期的で、ヒマさえあれば猫に言葉をおしえていたし、猫の不条理な報告に苦笑したり、「愛ってせつないのニャ」なんて台詞にうるへーよ、なんて毒づいたり、法則に基づいたやりとりであっても、それを生き物みたいに感じることは難しくなかった。
猫が消えたのは、湖でボートを漕いでいたときのことだった。新潟の湖だ。なんでそんなところにいたのかは、正直よく覚えていない。たぶん、相変わらず落ちこんでいたので、ぼんやりしていたのだと思う。
しかし、猫がいなくなったことを知って驚いた私は、もうぼんやりしていなかった。「ぶるーたすおまえもか…」って電源オフした後「やっぱ…」てオンして、無駄だと悟り、ポケステ投げ捨てようとしたり、友達に電話したいけど、「猫がいなくなったー」なんて狂気の沙汰だわ、と思い、そもそもその湖の上は圏外だということに気づいて、ガンガン漕いで岸に戻って、ベンチで昼寝してた友達を起こし、東京へもどった。
あのときの感情の起伏というのは、確かに生きてる感じがした。相手が人工無能であっても、そうやって気持ちを動かす事が出来るというのは、すこしふしぎで、でもたとえば twitter の中にそのような人工無能が混じっていても、私には気づける自信が無い。
そもそも気づく事が必要なのかもわからなくて、そこに書かれている文字が、読むものにとって意味を成すならば、それは意識(のようなもの)を帯びているのではないかと思う。
なんてことをぼんやり考える。話がそれたな。
ところで私は、昨日、出くわした人のことで、まだ動揺している。その様子は、ちっとも変わっていなくて、見た事のある服で、相変わらず手ぶらで、ポケットに手を入れて肩をいからせて、歩いていた。その様子があまりにもあの頃のままで、しかし私は自分がずいぶん変わってしまったことを自分だから知っていて、だからそれは、どうもの挨拶をかわすことのできるキオスクのおばちゃんより遠い。いなくなってしまった猫の姿に、カルピスのおまけとして出会うことと同じくらい、異なっている。
つまり、この出来事をこんなふうに、客観的に思い描き、アウトプットする気持ちの揺れを楽しめている時点で、わたしはわたしじゃなくなっていたのだ。
それってどんな気分なのか、どちらのわたしも好きだったカルピスウォーターを飲みながら、考える。よくわかんないけど、とりあえずここは、いい気持ちだった。

どこでもいっしょ

どこでもいっしょ