下北沢、日曜日

漫画を売りに古本屋へ向かう途中、踏切が開くのを待つために日陰に寄ると、あとをついてくるひとがあった。黄色いTシャツをきた、ふくよかなおばあさん。なんとなく会釈をかわし、ふたりで肩を並べる。「あついわね」「ええ、九月なのに」
そのまま、下北沢名物であるところの開かずの踏切を見据えつつ、気の遠くなるようなあつさにぼうっとしていると、不意に「きらきらでしょ」と声がする。見るとおばあさんの手にはめられた指輪が、アスファルトにきらきらと光を落としていた。
「ところでその大荷物はどうしたの?」「本を売りに行こうと思ってるんですよ」「売れるの?」「ええ、まあ捨てるよりはいいか、ってくらいですけど」「でもあなた、そのお金でまた本買うんでしょう?」「そのとおりです」「だと思った!」
踏切が開くと、「じゃ、わたしオオゼキ行くから!」と手を挙げて、そのおばあさんはしゃくしゃくと渡っていった。その足取りとともに光が揺れた。

しかし今日の場合、本を売ったお金はお茶代に消えた。のどが乾いて乾いて、もう限界というところまで自分を盛り上げ、向かったかき氷やさんがおやすみだったので、近場のアイスコーヒーで手を打ったのだ。つまりその代金に消えるくらいにしかならなかったのだけど、いい。のどが潤えばいい。
その後、連れと合流し、夕方のライブまで買い物でもするか、とそのまま下北を歩いていたら、ふと、目の前からシャボン玉の大群が押し寄せてきた。思わずカメラを取り出したが、光に消えてしまって、なかなかうまく映らない。うーん、とあきらめようとしたところに、寄ってきたおじいさんが「シャボン玉なんてうつるの」と訊くので、むきになって、撮る。結局、あまりうまくうつらなかったのだけど、デジカメの画面を拡大して見せたら、「すごいなあ今のカメラは」と言ってくれたので、たいへん満足した。

ま、すごいのはカメラだね、なんて笑いながら、さらに歩いていくと、ひざに大きな猫をのせたおじいさんがいて、思わず寄っていって「猫ですか?」と訊く。「さわれば」と誘ってくれるので、お言葉に甘えて、さわった。鼻先に手を伸ばすとあごをあげる仕草がかわいい。「写真、いいですか」といったらどうぞどうぞといってくれたので、撮る。あとからあとから、猫に釣られた人々の列ができる。当の招き猫は、ときおりあくびをしながら、眠そうな顔でじっとしていた。

そんな風に、今日はなんとなく、なんとない感じで見知らぬ人と言葉を交わすことがたくさんあった。
私はわりと人見知りをするくせに、人と話をしてみたい欲だけはあって、だから知らない人に、話かけたりかけられたりすると、うれしくてついこんなふうに、何度も反芻してしまったりする。なんで、と考えてみてもよくわからない。ただ、もっと気軽に、見知らぬ人とはなしたりわらったりわかれたりできればいいのにねと思う。そしてそれを覚えていたい。いつまでもくよくよしてたい。そしてひとと話をしているときは、そんなのぜんぶ忘れている。