真鶴/川上弘美

真鶴

真鶴

久しぶりに、川上弘美さんの小説を読んだ。
川上さんの小説は、好きだけど、なんとなく引きずられるようなところが少し苦手だ。そして、この本は、今まで読んだ川上さんの作品の中で、もっとも、引きずられる物語だったように思う。
さみしくなる話だった。でもその感じは久しぶりで、やっぱり少し苦手とか思いながらも、夢中になって読み終えた。
主人公、京と、その母と娘の百。女ばかりの家族と、恋人の青慈、そしていなくなった夫、礼。その人の輪の中で描かれるのは、人と人とを分け隔てる境の話だ。

家族になって、からだとからだの境界もはっきりしなくなって、百とわたしと礼の三人でまじりあってとけあっていると思っていた。/p217

この器のある間は、人はたぶん混じりあわない。けれど、その後はどうだろう。そんなことを思いながら寄せて返す、その感触が少し恐ろしい。けれどつい、ジッと見入ってしまうような、あの長く引きのばされる瞬間のことを考える。届きそうで届かない、もどかしくていらいらする。それはたぶん、器を保てなくなることの恐ろしさととても近い。

この家、男の子がいないから、と言いながらノートパソコンに男名前をつけた百のことを思いだす。あのころの百は、もういない百だ。いたけれど、いないもの。
それでは夫はどうなのだろう。失踪した夫の、失踪してからの姿を知らないので、ぷつんと何かが切れてしまっている。夫は「もういないもの」ではなく、「まだいないもの」だ。
まだいないもの。いつか、あらわれるかもしれないもの。
過去の中に姿を消すことのできるものは、今あるものばかりだ。今ないものは、過去の中に消すことはできない。どこにも消すこともできない。不在なのに、いつまでたっても、なくならない。/p105

ほんとうに、そうだろうか。そうだったらいい、と、そうであってはならない、が同じくらい湧いてきて、ああでも続いていくとはそういうことなのかもしれないなと思う。私はまだそれを知らないだけだ。
読み終えて、何ともいえない、さみしいような気持ちを持て余しつつ、でもそれは自分の器を思い出すことでもあって、少しだけ、心強い。

日がかげり、すぐにまた日差しがもどる。三人の、顔から肩にかけて、窓越しに光がさしている。身をかがめると、ちょうど光が額のあたりにきて、冠のようだ。同じ冠をつけ、同じ血をわけた、歳のことなる三人の女。/p254