文章が楽譜だったら

考え中(id:ichinics:20070918:p2)、のつづき。
文章を読み書きすることと、声について考えてみる。わたしは、流し読みのようなことをしているときでも、拾った言葉はたぶん音に変換しているし、こうしてキーボードをうちながらも頭の中では声を発している。だから意味の通りやすさよりも前に、感覚的に句点読点をうつ。
つまり、ここにある、ぱっと見はただの文字の集合でしかない文章たちも、それが書かれる過程で思い描かれた、リズムというものを(ささやかながら)持っている。ということは、書かれてある文章とは、意味の前に、楽譜のようなものとしてある、と言うことはできないだろうか。それはもしかしたら、日本語特有のものなのかもしれないけど、と考えていて、ああ声に出して読みたい日本語ってのはそういうことだったのかなーとか、思う。知らないくせに適当なことを思う。
ともかく、文章を読む時、黙読する時、頭で声を出してしまうわたしの癖というのが一般的なのか、それともそれは単に不器用なことなのかわからないけれど、たとえばわたしのこの日記を、読む人がいたとして、その人の読むリズムは、わたしの思い描くそれと似ているだろうか。私が読むだれかの文章は、その人の思い描くテンポを、追いかけているだろうか。
もしそれが重なるのなら、言葉をとおして意味に触れるのと同じくらい、近いことなんじゃないだろうか。
会話として、その場で交わされる言葉とは違う、書かれた言葉だからこそのやりとりというのが、その辺にあるような気がするので、もうちょっと考えてみたい。