褒めることのむずかしさ

何かの「良さ」を人に伝えようとするときに、「好き」という言葉を選ぶことが多くなった。もしくは「良いと思う」とかね。
この「良さ」の判断基準は「私」にありますよー、ということを示しておきたいとき、好き、という言葉はとても便利だ。
例えてみる。

  • 「私は焼肉が好き」

これはあなたにとっての焼肉がどうであるかは含まない。私は私の焼肉を好きだ、っていう、それだけ。しかし、

  • 「焼肉は良いものだ」

これだと、私だけでなく、世界にとって焼肉の良さをアピールしているようになる。なりませんか? 少なくとも、「おまえも良いっておもうだろ、な?」というような、迫ってくる感じがある。強い気がする。そこで、

  • 「焼肉は良いものだと(私は)思う」

としてみると、「良さ」は再び私に結びつけられる。

しかし、そうやって安易に「好き」という言葉を選ぶのは、何か違うような気がしている。言葉の手綱を握っていたい気持ちはあるけれど、良さを伝えたいと思うことと、私が好きであるということは、本来別のことなのではないか。
とても好きだ、と思うものがあるとする。私が伝えたいのは、私の「好きさ」なのか、対象の「すばらしさ」なのか。そのすばらしさを伝えたいと思う時に、「(私は)好き」という言葉は、きっと弱い。

逆に、「良い」という言葉の持つ強さは、使い方次第で、どこか見えない「前提」のようなものを感じさせる。「空気」といってもいい。
例えば「AするくらいならBのが良いよ」とか、そういう使い方だと、Aだけでなく、Bも少し落とされている気がする。
「焼肉は良いよねー」といえば、肯定か否定かの相手の意見が(口に出さずとも)返ってくるだろうな、と今私は自然に思い描くけれど、「ゾンビ良いよねー」と言ったら、冗談と受け取られかねない…と、思う(環境によるけれど)。だから「ゾンビが好きでさ」ということを先に説明しようとする(かもしれない)。
この予測自体が「前提」であり「空気」なのだと思う。そして、「良さ」のような価値を自分と切り離して語ることには、その空気に相手を巻き込み、反応を求めるところがあると思う。そこが、強い。

ただ、「好き」というのも「良い」というのも、それを相手に伝えるということは結局、相手に、私がなにを良しとするのかを伝えることなのだ。
ブログなどは、その良い例で、私も「こんなものやあんなものも読んでいる人が、褒めていたから」という理由で興味を持ち,手に取る事がよくある。
しかし、ブログだって、その1ページ、1部分しか見られないという事の方が、きっと多い。そして、1ページの情報量は限られているし、それでは価値観のアイコンとしては、たぶん弱い。ログとか、なんていうか情報のようなものを見てもらえなければ「伝える」ことができないからだ。
それならば、やはりその場その場で言葉を探して、その「良さ」について、語りたいと思う。単純に「良い」ということで満足せずに、「好き」という言葉を呟くだけでもなく。むしろ、それの何に反応したかを伝えて、その良し悪しは受け手の人が決めてくれる、っていうのが、理想かもしれないな。……ってそれはやっぱり、価値観を自分と結びつけたままでいたいってことになるわけですけど、そもそも、そんな簡単に、良い悪いだけで判断なんかできないよね、って本末転倒か。
ともかく、「好き」にも「良い」にもそれぞれの使い方がある。だから、大事なものについて話すときには、それを意識しながら、なんのために言うのかを、考えて使えたらいいなと、思った。