手を振る

自分が好きなものの、「良さ」を伝えることの難しさについて、少し前に書いた。あの時考えていたのは、私と相手の外側にあるものについて話すときのことだったのだけど、しかし、その相手に属するものについて語りたいと思う時、伝えたいのはたぶん「良さ」ではないのだと思う。
例えば誰かの言動で、とてもうれしくなったりするとき、どうにかして伝えたいと思うのは、それでどんなに私がうれしかったか、というそのままだ。でも、そういうときに限って言葉が思い付かないのは、私が感じたことを自分の言葉で上書きしてしまうのがもったいなく感じるからなのかもしれない。まだラベルを貼りたくない、決めたくない、もっといい特別な言葉が、あるかもしれない。そんなこと思ってるうちに、タイミングを逃す。
私が日記に感想を書くのは、記憶の補強だ、と書いたことがあるし今もそう思っているけれど、誰かにそれを言いたいと思って書くときのこれは、いつも、下書きなんだと思う。
でも時々、そんなのまどろっこしくてやってらんないよ、と思うこともある。こんなことしてないで、これをこのまんま、出してみせられればいいのになあ、ってところに何度たどり着いただろうか。
それでもなお、足踏みを続けてしまうのは、相手に属しているものについて話すことは、それを伝えた相手がどう思うだろうと、考えることでもあるからだ。そしたら、つい、そのことを確認したくなってしまうだろう。伝えるだけで満足していたはずのものが、会話になるなら、それはとても嬉しいことだけど、コミュニケーションの手段が増えた今では、そのハードルの高さも様々だ。
だからこうして、ときどき手を振りたくなる。ありがとう、とか、おめでとう、とか、元気でやってますか、とか、ぜんぶひっくるめて。
いつか、ぴったりの言葉を見つけられればいいなと思う。でも、それはきっと、切り取られた言葉ではなく、続くものの中にあるのだとも思う。