記憶は印象でできている

すれ違う人を見て「あ、あのひと知ってる」というようなことを、妹はよく口にする。バイトしている焼肉屋に、よく来る人なんだろうと思って「常連さん?」ときくと、そうでもない。「まえに1回きたことあるくらい」でも、顔は覚えているという。バイト先のことだけでなく、よく電車で一緒になるとか、小学校のとき一つ上の学年だったとか、たぶん妹は人の顔を覚えるのが得意なのだと思う。
対照的に、私は人の顔を覚えるのが、あんまり得意じゃない。というか、視力が悪いくせに普段眼鏡をかけていないので、意識して見るか、近くで会話をしたことがあるような相手でなければ、まず認識できない(あくまでも「顔」に限ったことだけど)。芸能人などが思いだしやすいのは、たぶん静止画像で腰を据えて見た事があるから、画像として思いだしやすいのであって、関わりをもった相手のことを思いだすときに、出てくるのは、顔よりもまず、情景や印象だったりする。
例えば、昔好きだったひとは眉毛がとても太かった。それでわたしは眉毛ばかりみていたので、会わなくなった今では眉毛からズームアウトして思いだすし、それはいつだって、同じ日の夕方の出来事と、くっついている。小学校の同級生を思いだすなら、牛乳おかわりしに席を立つときの畔上くんとか、上履きでバレリーナの真似してる野本くんの、緑色のつま先とか、お辞儀したらランドセルの中身がすべりでた時の小泉さんとか、エンドーさんとぶらぶら多摩川沿い歩いてって帰ったら6時過ぎちゃって、母さんにとても心配されて、あのとき母さんがベランダから、私のこと見下ろしてた感じとか。
そんなふうに、特に滅多に会わない人については、情報が更新されないからか、いくつかの場面の印象がずうっと続いていて、昔になればなるほど、画面のあちこちが、ぼやけていくような気がする。

ということを今日、kebabtaroさんが書かれていた「ブシェミ的」という文章の中の「固有名詞はいつも一匹で、形容詞は集団で群れているかのよう。」というとこを読んで考えていた。あんまり関わりのない話になってしまったかもしれなけれど、たぶん印象は形容詞、顔は固有名詞に近いノのではノということを考えたかったのだと思う。
ちなみに私がよく思いだせなくなる「名前」は、ジュード・ロウだ。いつも「あの美形のひとノ」「ガタカのノ」て説明するんだけど、美形って説明すると「へー、ああいう顔がスキなんだー」ていわれるのですが、美形は「リプリー」の役のイメージであって、べつに好きっていうわけでもないノというかそもそも私は、ジュード・ロウの顔をよく思いだせないのでした。デーモン・アルバーンみたいなかんじだった。