- 作者: 大島弓子
- 出版社/メーカー: 白泉社
- 発売日: 2001/06
- メディア: 文庫
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大好きな大島弓子さんの作品の中でも、この一冊に入っている話は特別に思い入れのあるものが多く、特に「ロストハウス」と「ジィジィ」のことは、普段からよく思い出します。
「ジィジィ」
あと7日で世界が終わる、という大おばの予言を信じてしまった人々と、それに振り回される主人公のお話。パーティのようなこの終末は、その一瞬、すべてのひとが平等だからこそなのかもしれない。そして、「人生毎日が最後の日」という大おばの台詞を思い出しながら、それは伝えられるうちに、伝えたいことなのだ、と思う。たとえば感謝や、好意のようなもの。
ハッピーエンドを見ると となりの人が すごくいい人にみえてくる
たとえそれが錯覚だとしても、その人について、これから知ろうと思う、このラストも好きだ。
「青い固い渋い」
青く固く渋い、ちーちゃんの気持ちと、知らない土地で暮らすということについて、考える。生活することや、ひととひとがわかりあうというのは、時々とても難しい。けれど、不意に気持ちを溶かしてくれるのは、近いようで遠い場所からの、こんな一言だったりする。この輪が触れあう感じがとてもうれしい。堀江敏幸さんの「河岸忘日抄」(id:ichinics:20061129:p1)の雰囲気と少し似てるかもしれないと思った。
「ロストハウス」
幼いころ、いつも隣の家へ遊びにいっていた主人公は、その「解放区」を忘れられずにいる。
わたしはなんの趣味も特技も人生の目的もない
ただ 小さな解放区さえあれば
あとはロボットみたいに生きていけると思っていた
趣味や特技や目的ではなくて、解放される「場所」を必要とするのは、けして厭世的なことではなく、じつはとても贅沢なことなのかもしれない。いろいろ考えるところはある。それでも、この結末の世界が裏返るようなうつくしさを思い返すたびに、心強く思う。
ある日、いつも鍵の開け放たれていた家の住人に恋人ができる。主人公は、自分から解放区を奪った者として彼女を警戒しているのだけど、その彼女と部屋に2人きりになる場面で、「(この部屋にいた)蜘蛛はどうしたんだろう」と問うと、彼女は「あら、わたしその蜘蛛よ」と答える。このやりとりがとても好きだ。
「8月に生まれる子供」
猛スピードで老化してしまうという奇病にかかった主人公の物語。展開が多少唐突に思えるところはあるし、いろいろなことを考えてしまう題材でもあるのだけど、冒頭にかかれた「わたしはわたしの王女様である そしてその民である」*1という言葉が、すべてだ、と思う。その国の中のことであるならば、王女を助けるのも民を救うのも、わたしなのだ。そして、わたしだけが、それを命じることができる、ということ。
「クレイジーガーデン」
文通相手をたよりに東京へ出てきた女の子、テルのお話。働くこと、働いて得たお金の使い道があるということの安心について。「やまのあなたのそらとおく」に何があるのかよりも、そこに「さいわい」があると信じることの、お話だと思います。テルがホームシックにかかる場面がとてもすき。
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何度も読み返してる作品だけに、改めて感想を言葉にしようとするとなかなかむずかしいんだけど、久しぶりに一気に読んでみて思ったのは、大島さんの作品の多くは、例えば「ロストハウス」のように「自分の幸せにむかって、まっすぐ進んでいっていいのだと、自分をゆるすお話なのかもしれないな、ということでした。
*1:どこか別のところで読んだことがあるような気がするから、何かの引用なのかもしれないけどわからない…