コーヒーがぬるいわけ

23時、駅には向かわずに曲がり角を、左、右、左。ひとつ折れるごとに明るさのボリュームが小さくなっていく路地の奥にある部屋の、キッチンには白い薬缶があって、その底は茶色く焦げていた。焦げているなぁと思いながら、湯が沸くのを待つ。その足がかじかむのを冬になると思いだす。
湯が沸くと、その薬缶はドの音を鳴らした。もう少し高温になると熱すぎた。ドの音くらいでとめるのが、ちょうどよいと思って待ちかまえていた。たまに、夜中にコーヒーが飲みたくなって、湯を沸かしはじめるのだけど、じっと火を見ていると眠くなって、立ったまま眠ってしまうこともあった。
私の特技は幼い頃から立寝なのだ。立ったまま眠り歩きながら細切れの夢を見る。ほらむかし駄菓子屋で買った、組み立て式の飛行機みたいな感じで、意識は軽く、意外と遠くまで飛んで行く。いまこことそことどこかと、例えば眠ってばかりいた学生のころ、制服のブレザーの袖に隠したイヤホンから流れてたのは、トランジスタラジオ、ではなくて、
低いドの音が鳴ると、浮かぶのはあの大きな管楽器の音だ。卒業式の入場曲は威風堂々。1人1言叫んで立ち上がる思い出のかけ声、みたいなあれで、私が好きだった男の子は「氷砂糖のあの甘さ」と、かすれる声で、言った。
それは六年生の遠足のくだりだった。私は学生時代の遠足以外、山登りなんて一度しかしたことないけれど、そのときはもう氷砂糖よりも、水筒に入れたコーヒーを、楽しみにしていたなぁ、とか、思いだして、ふと気づくと湯が沸いている。
火をとめる。その瞬間ここがどこだかわからないほどに寝ぼけていて、いくつもの自分が大急ぎで集まってきて整列する、そのよそよそしさを他人事のように見つめながら、どこからでもはじめられるような気が、することもある。
そして眠気の群青色が褪せるにつれ、その自信とか確信みたいなものも遠ざかっていくのだけど、もしかしたら、1人くらい足りないままなんじゃないかとか、コーヒーを飲みながら話した日のことを、夢に見ていた。
そんなわけで、私が入れるコーヒーは、いつも少しぬるい。