向こう側ってなにか

先日「向こう側のひとたちへ」(id:ichinics:20071108:p1)という文章を書いた。
その後、mutronix さんの『 「ではまたどこかで…」など、ない』という文章を読んでから、いろいろと考えていたんだけども、今日、数日ぶりに自分のエントリを読み返してみて、少し驚いたというか、自分の言いたかったことと、ずれてしまったのかもなと思うところがあった。

  • 「なくなったブログの後には、何か穴のようなものが、残っていて、私が何か言いたくてメモ帳開くその時も、向こう側は続いているんだということを思いだす。」

私がここで、あっけらかんと「向こう側」という言葉を使ったのは、たとえば「ブログが更新停止しても中の人は生きている」というようなことを言いたいのではなかった。いや、それもある部分では正しいとは思うのだけど、それでも「だからべつにいいじゃん」ということではないのに、こうして数日経つと、そう読めてしまうんだな……というわけで往生際悪く追記。

例えば、あるひとつのエントリを読んだだけで、(その文章の面白さは別として)書いた人の印象を決めてしまうことが、わたしはこわいと思う。

  • 「ブログに書いてることなんて切り取られた部分だ」

と書いたのは、つまりそういう自戒だ。だから、ひとつのエントリでひっかかるところが(その好悪にかかわらず)あったときは、できるだけ他のエントリも読んでみようとか思うのだけど、それはつまり「中の人」を意識することなのか、id:誰か、の個性を思うことなのか、私にはよくわからない。とにかく、ひとつのエントリに対して感想を持つということは、例えば物語を一冊読んだだけで、仮にその世界観に胸を打たれたとしても、作者がどんな人かとか想像したりしない(私の場合)事に似ている。
ただ確かに、書かれているとき、書き続けられているとき、そして読まれている間、その世界は生きる。その点では、書物もid:誰かの「日記」も同じだ、と私は思う。
しかし、サイトやブログの場合、その魅力はやはり「続くこと」にあるのだとも思う。ブクマを集めたエントリ1本を読むのと、更新を追いかけて読むのとじゃまったく印象が違う。もちろん、どこを切り取っても面白いところもあるし、そういうふうにできたらいいなぁと憧れることもあるけど、
やっぱり続けて読むからこそ、浮き彫りになる部分というのはあると思うし、それこそがこちら側、読み手側からみた「向こう側のひと」で、それはもちろん「中の人」を知る事とは違うんだけど、その影、のようなものと言えなくもないのではないか。私はそれに興味があって、
id:誰かの更新停止は、その向こう側の世界ごと、いなくなってしまうことを示しているように感じる。だからさびしい。
でもそれと同時に、例えば物語が終わったあとも、その主人公たちは死ぬ訳ではなく、なんとなく続いているように感じられるときというのもあって、その生活の、意識の感触がどこかですれ違うことも、ないわけではないのだと、信じたい気持ちがある。
書くことは手を振る事に似ていて、たまにだれかから、手を振りかえされたような気持ちになる。やあやあやあ、ごきげんいかが? そんなふうに。
そして、こちら側にいる限り、できるのは手を振ることくらいだーと思ってしまうのは、なんでなんだろうなと思う。その辺は、まだもうちょっと考えてみたいと思います。