目にうつる何か

最近書くことの半分近くが昔話になっていますが、とくに近頃思い出に浸っているというわけではなく、むしろそもそも人生はまるで、過去ログの海を泳ぐようなもの、視界にうつり言葉にしたとたんに、記憶になっていくその、肩に触れるような、懐かしい気持ちはつねにまとわりついているんだし、なんてことを考えながら、いくつかの写真を見ていて、たとえばドキュメンタリー映画が、撮られる者と撮る者の関係性を浮き彫りにするようなところがある、というか、その関係性こそがドキュメンタリーなのではないか…、とか思うのに対し、写真における関係性っていうのは、どういうものなんだろうなと、思った。
グラビア写真のアイドルが見ているのは、カメラマンなのか、その先にいるファンなのか、自分なのか、とか。ポートレイトにうつる人は、それをとるカメラマンとどのような会話をかわして、その写真にとられたのだろう。そして今も、その写真をとられたことを、覚えているのだろうか、とか。例えば、風景のように、写真に「うつりこんだ」人々の姿は、そこに流れていた時間を思わせるむしろ場に近い存在として見えるけれど、例えばカメラを見据えている人の目には、言葉になる寸前の、何かがあるように思うことがある。
カメラをかまえている人を見ているはずなのに、こちらを見ているような気がする目もあれば、あきらかにカメラに(というかカメラマンに)向かって何かを言おうとしているように感じる写真もある。
その何かを、写真のこちら側/場の外にいる自分は想像することしかできないはずなのに、その差が明らかであるように感じるのはなぜなのだろう。
そして、そんなふうに写真や映像には、撮るものと撮られるものの関係性のようなものが、写るように感じるのに対し、文章で、例えば何か思い出について書いたとして、書かれた誰かの「何か」のようなものの気配は、文章にあらわれたりするのだろうか、そして読む人にその輪郭を感じさせることは可能なのだろうか、とか考えています。