諦念ははじまり

少しまえ、はてなブックマークで知った茂木健一郎さんの「表現者はいいわけをしてはならない」という文章を読んだ(以下枠内すべて引用)。基本的には、とてもまっとうなことが書かれている、と感じたし、受け手側(鑑賞者)について、

「私はこのような印象を受けたが、本当のところはどうなのか、わからない領域がある」といった「留保」のようなものがあるかどうか。

と書かれているのは、他者である表現者の意図を読み解こうとするうえで、とても大切な(むしろ当然の礼儀ともいえる)ことだと思う。もちろん、「私はこう感じた」と主体を明らかにしているのならば、「私にとってはこの作品はこのようなものである」と表明することを躊躇う必要もないとも思うのだけど、なにか価値観のようなものを表明する際には、その「留保」があるかどうか、立ち止まることを忘れないようにしたい。
逆に、表現者側からみた言葉、なぜ「表現者はいいわけをしてはならない」のか、という部分については、すこし、というか自分の思うことと重なる部分は大きいはずなのに、裏返しの言葉のように感じられた。

もっとも、どんなに卓越した技量で、
すばらしい表現をしても、
必ず曲解する人はいる。
天才でも、大家でも、
真意が伝わらないというリスクから
逃れることはできない。
だから、表現者という者は、
長く真摯な経験を積んだ者ほど、
じっと耐えている気配をにじませるように
なるものである。
そこには一つの諦念がある。
未熟な時には、誤解にいちいち傷ついたり
憤慨したりするものだが、
やがて古傷は癒え、魂の表面が年経た
樫の木のような風合いを見せ始めた
時に、その人は本物の表現者となる。

…… そもそも、「真意」が伝わることなんてあるのだろうか。と書き出すと、ああ私はいつもそんなことばっかり言ってるなぁ、と自分でもあきれてしまうのだけど、でもやっぱり「真意が伝わらないというリスク」という言葉は、なんだか居心地がわるい。
自分の「真意」なんて、表現者自身にだって、正確に捉えることはできないのではないか。
もちろん、まったく的外れな曲解というものは確かにある、誤解もある。そしてそれらは表現者を傷つけることもあるだろう。ここで言いたいのはそのような「誤解」や「留保」のなさのことではなくて、
例えば「これは “未来” を表現してるんだ」みたいなことを言う表現者の「未来」と、これは “未来” を表現しているのだ、と感じた鑑賞者のイメージしている「未来」は、違っている可能性だってあるのだ。その覚悟もまた、留保だと思う。
そして、表現者側だって、表現をしてみてはじめて、自分の思っていなかったような “未来” があると知ることも、あるのではないか、と思う。
つまり、真意が伝わらないことは、リスクというよりも、スタートラインなのではないか。

そこには一つの諦念がある。

それは辿り着くところではなくて、ただのはじまりなんじゃないかな。
これは茂木さんのイメージしているのであろう「表現」だけでなく、例えば人と人との会話などにも言えることだ。
伝わらない、掴みきれない、たとえば「真意」のようなものが、もしかしたら/いつかは/誰かに伝わるのではないかという希望が、表現なのではないか。そう私は、思いたい。その誰かは自分かもしれないし、まだ見ぬ誰かだったり、より多くの人にとのぞむことだってあるだろう。
それなら、流通、拡散の過程で発生する誤解や曲解を探すよりも、その希望を見たいよな、と私は思う。その希望は「真意」を伝えることだったり、もっと別のことだったりするかもしれないけど、けして「諦念」ではない。
そんなふうに、諦められないなんかいっこを、もてたらじゅうぶんだと思う。とりあえず、いまのところは。