「きみはぼくを、たまにみている」

土曜の朝、電車に乗っているとき、すぐそばに親子が立っていた。男の子は、お母さんと外出できるのが嬉しくて仕方ないって顔で、お母さんの足に乗っかったり腕をひっぱったりしている。いたいいたい、といって笑いながら、その子のお母さんは「そんなひっぱったら、ママの手とれちゃうよ。もうママごはん作れなくなっちゃうけどいいの? ○くんもうママのごはんたべれないんだよー」みたいなことを、言って、そういうのって親子によくある会話といえばそうなんだけど、男の子がお母さんにギュッと抱きついて「やだ! おかーさんのごはんたべたい」と言ったのには、だいぶぐらっときてしまった。「ひっぱってないからね」と言いながら、もういちど手をつなぐ。窓のそとを見ながら、なんども振り返って、お母さんの顔を確認する。ああちゃんといる、っていう、ほっとした顔を、私は見ていた。

わりと、ちょっとしたことでかなしくなったりうれしくなったりする私も、最近はおおむね毎日が楽しい。そして、いまの楽しいとかうれしいは、あとから「楽しくなかった」に書きかわったりはしないのだから、楽しいなーと思っておけばいいんだよばか、という気分について分解しようとしてもなかなか難しくて、ただ、時間とともに自分の視線とかがかわってしまうとしても、それは過去が上書きされるわけじゃないんだよ、というのは、心強いことでもあり、同時に自分の外にある、考えても考えても詮無い、手の届かない範囲の広さを思い知らされたりもするわけで云々と、わけもなくわき上がってくる不安にビールをひっかけたりしつつ、結局笑ってやり過ごす。そんなときもたまにある。でも、そういや先日、ふとした瞬間に目が合ったガラス越しの自分の顔は、なんかつーか、ばかみたいなカオして笑っていて、恥ずかしいというか、その安心にちょっと気持ちが日和ったけれど、なんとなく可笑しかったから、まあいいや、と思う。

ようするに、とつい口をついて出るけれども、べつに要約する必要もないじゃん、みたいなことすぐ思ってしまう頭のせいで、「あたまのなかくらいきちんとかたづけたいのになかなかうまくいかない」って、右下にあるプロフィールの一言みたいに、これ実は日記はじめたときから一度も変えた事無いんですけど、そんなふうになかなかうまくかたづかないまんま、三年近く経ってしまったのかもしれません。諦めてるわけじゃないんだけどね。あーでも諦めるのって楽だよねとか。思いだしながらも、それと今あるものから目を逸らすこととは違うし、いまは全然そんなつもりはなくて、むしろなにかを願っているみたいな気分だ。

なんか最近、ちょっと日記に書きにくいこと増えたのかもしれない。もちろん、そんなの自分の心持ちひとつだし、書けることだけでも書ききれないはずなので、日記を書きたい欲みたいなのは減ってないんだけど。
ただ、とりあえず、来年の今ごろの自分に向かって書いときたいなぁて思うのは、私はいまとても楽しいみたいだということです。その楽しい感じと手をつなぎながら、たまに振り返ってみてる。そんな感じを覚えてるだろーかってこと。

今年の冬が暖かいのかわたしが鈍くなったのかよくわからないけど、今年の冬はあんまり寒くないかも、と思う。すごく寒いけど、やりきれないというほどではなくて、かつて「冬は目が覚めるたんびにぜつぼうてきな気分になる」とか口癖のようにいってたのが嘘みたいに、最近は冬が嫌い、というわけでもなくなってきた。というわけで、冬の空。

潮時になれば みんな帰るよ
僕は君と最後まで酔っぱらってるよ
夢のような夢だ