結論はでません

「私の世界は私なのか」と腑に落ちたような気分になってからは、わりと視界がクリアになった気がしていた。堅い感じがした。
そのかわり、自分の気持ち、というのがよくわからなくなった。そんな、移ろいやすいものを頼れないと思ったし、自分の感情を、わりといつもうたがっていた。ほんとうに必要か、好きか、大切か、その罪悪感は、自分をいい人に見せたいだけなんじゃないの、ほんとはどうでもいいんじゃないの、とか。そうしているうちに、したいことなんてなにひとつないような気もした。そして、こんなペラペラの感情を人に見せて、わかる、などと言われたらどうしようかと思った。ありもしないものが、わかられることなんてないし、それでも残っているどうしても嫌なことのいくつかは、その辺りに淀んでいた。
みんなそのまんまでいい。そのまんまでしかないものを、ただ見ることだけしていたい、と思いながら、手をのばしたいような矛盾もあって、
でも、自分の気持ちに疑うところがない、という状態は、どうしたいか、という方向ができることでもあるんだった。意味よりも前に、矢印の方向を向いていて、
すると、私の世界は私なのか、というあの心強さすら、ままならないことのように感じられ、そこを越えたい、と思ってしまう。この、どうしてもという気持ちは、私が嫌ってきた傲慢さでもあるはずなんだけど、
それでも、何も感じずに見るということは、見ていないということなのだと、思う。そして、見るということは、自分の気持ちを賭けて、願うことなのかもしれない。
願いながら、いつまでも結論つけないまんまでいる、それ全部が私だという覚悟みたいなものを持って。