「怒り」と期待

「東京猫の散歩と昼寝」さんの書かれていた仮想世界での怒りは存在するかどうか…というお話が面白かった。

我々が笑うとき、それが架空の話でも笑う。漫才とかジョークとか、むしろ空想のバカ話として笑うことが本義かもしれない。ところが、怒りは違うのではないか。自分の日常であれテレビのニュースであれ、ムカっとくるときそこには必ず事実がある。怒りを向ける人物や状況が実在する。
「東京猫の散歩と昼寝 − …ってことは、この世がすべて幻だと思えたら、怒りは消えるのか?」

先日、夢で笑ったり怒ったりしたことは、起きてからも余韻として「あった」と感じられるのが面白い…ということを書いた(id:ichinics:20080107:p2)。しかし tokyocat さんが挙げられていた例のように、目が覚めてから思い返した時、確かに「笑い」は有効だとしても、「怒り」は無効になるかもしれない、と思った。
ただ、例えばフィクションである物語の登場人物にムカついたりすることと同じように、夢の中で言われた台詞自体に怒りが持続する、ということはあるだろう。でもそれも、そのような言葉を言う人物、という対象に向かっての感情だ。
私は、怒ることというのは、期待することに似ていると思う。
自分の思うこと、他人の言動が食い違うことが、我慢できなかったり、悲しかったりする、その状況を、どこかへ向けたい、向けられるんじゃないだろうかっていう期待が、怒りなのではないかと思う。
期待せずに諦めてしまえば、その衝突はそこから先へ進めない。摩擦があるからこそ、物事は動くのだと思う。もちろん、それが必ずしもいい方向へ向かうとは限らないんだけど、できるだけ両者にとって、いい方向へ展開できるような対話ができればいいのになあと思う。
前にもちょっと書いたことがあるけれど、例えば仕事の話だったりすれば、相手に期待する範囲が限られているから、相手が近しい人である場合とは怒り方もかわるだろう。仮に、メールの返事が遅いことにイライラしたとしても、取引先の人にそのイライラを伝えたりはしないし、それで仕事に不都合がでるようだったら、「あの人返事が遅いから急ぎの仕事は頼めないなあ」というようになったりする(←自戒)。
つまり、怒りは反応であると同時に対象への働きかけをともなう(ことが多い)のに対し、笑い(楽しさ)というのは、相手に何かを求めることというよりは、純粋な反応なんじゃないだろうか。
悲しみや喜びはどうだろう? 泣くことは笑いと同じように「反応/反射」だと思うけれど、悲しみや喜びは、笑いに比べると、もう一泊置いた感情のような気がする。
悲しい夢を見て、泣きながら目が覚めることはあっても、目が覚めてそれが夢であることがわかれば「ああよかった」とほっとする。でも仮にそういうことが現実にあったとしたら、やっぱり悲しいだろう。それは夢の中での「怒り」の方に近いかもしれない。ただ、

ドラマがハッピーエンドだと本気で喜んでしまう。ドラマがバッドエンドだと、怒りは、バッドエンドをもたらした物語上の人物よりも、そんな物語を作った実在の誰かに向かうこともありえる。

と tokyocat さんも書かれているように、物語に対する反応を考えてみると、喜びや笑いは肯定的に「受け入れる」反応であり、怒りはやはり変化を求めること、期待することに近いように思う。だから、「この世がすべて幻だと思えたら、怒りは消えるのか?」という問いに対しては、いくら幻だ自覚することができても、そこから出ていけない限りは、出ていきたい/変えたいと思っている限りは、消えない、と思う。幻だからもう、仕方ないやと諦めてしまえば、それはむしろ悲しみに近いのではないだろうか。